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9月5日(日)M「桜の園」流山児★事務所、あうるすぽっと

作:アントン・チェーホフ、翻訳・台本:木内宏昌、演出:千葉哲也。あうるすぽっとチェーホフフェスチバル参加作品。なかなか斬新で心の鎮まる「桜の園」である。舞台は屋敷の子供部屋だが、いままでの「桜の園」の通常のセットとはまるで違う。高い奥のなにやら文様がある壁がそそり立ち、上手に鋼の階段があり、上の部屋に通ずる。下手に二人がゆうゆう座れる大きなブランコがあり、紗幕に覆われた構造物がある。この美術はTPTの「広い世界のほとりに」という千葉の演出の芝居で、ベニサンピットの構造を見事に使った石原敬。払暁の暗い部屋に老僕フイールスが入ってきて、なにやら呟きながら灯をともす。この「桜の園」が斬新なのは、通常はラフネースカヤの兄ガーエフの身の回りの世話をしているだけだったが、塩野谷正幸が演じるフイールスが芝居の要を担っていること。この農奴だったのに農奴解放を嫌悪する老僕が、この家に出入りする人間たちの行状を見守り断罪する役を果たす。さらに千葉は、いままでのチェーホフ劇の常套を排し、俳優の演技をナチュラルにすることによって、芝居を平滑にし、芝居の見晴らしをよくする。イワオが演じる万年大学生ペーチャがいつもの流山児の芝居での臭いが消えて見違えるようだ。幕間に千葉にそのことを放したら”フツーにやってるんですよ。流山児さんももうすこしフツーにやってくれたら”と笑っていっていたが、彼の演じるガーエフはなるほど一寸くさいが、この役は誰が演じてもうっとおしいのだが、流山児のは活気があって面白かった。池下重大のロパーヒンがそのフツーの演技で今の時代を生きている。伊藤弘子のワーリャも千葉の意を体していた。その中で塩野谷の存在感が底光りしていた。無論安奈淳のラフネースカヤが中心人物の貫禄を示す。ニ幕目の幕開きは現代的なダンスシーンで始まる。それと対照的に下手に古典的な舞踏会の影絵か浮かび、、天井にゆらゆら光る玉が遊泳する。典雅で美しい情景だ。千葉の演出は精緻に細部を活かし、さらに思いきって強調すべきところはする。そのバランス感覚が素晴らしい。大概の「桜の園」では最後のロパーヒンとワーリャの別れはなんとなくすれ違ってしまうのだが、この舞台では濃厚なキスシーンがあり、それでも分かれてしまう。このほうが観ていて説得的ではある。ロパーヒンが何万べん説得しても、アrフネースカヤは桜の園を切り倒すことは考えることさえできない。個人の思いの伝達不可能性、その根源的な不可避性ハアrフネースカヤとロパーヒン、ロパーヒンとワーリャあdけではなく、登場人物全員にあてはなる。その農奴解放後の不安定な社会が生んだ現象を、農奴制の貴族社会を懐かしむフィルースが冷ややかにみつめ、断罪する。チェーホフの覚めた視線を、千葉が現代に蘇らせ、一種の鎮魂の気配がみなぎる舞台だった。
▼メモ。9月4日の朝日新聞朝刊に載った坂手洋二が書いた、オピニオン・論劇「徳之島少年と旅人」という対話形式のエッセイは現下沖縄の焦眉の問題に対する情理を尽くした告発の文章として出色。こういう文章を演劇界の人間が書いたことは誇りに思っていい。

by engekibukuro | 2010-09-06 13:09 | Comments(0)  

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