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4月28日(木)S「国民の映画」(作・演出:三谷幸喜)

 東京で見損なったので、神奈川芸術劇場でみせてもらった。ナチス時代のドイツが舞台で、宣伝大臣ゲッペルスが自分の広大な屋敷に映画関係者を集めてパーテイを開く・・。この芝居、たしかにサンシャインボーイズ時代からの盟友である、この芝居ではゲッペルスの執事を演じた小林隆がパンフで語っているように、とにかく劇場で大笑いをしてもらうのを第一義にしてきた三谷の、なにか大きく変わろうとしている非情に挑戦的な芝居であることを強く感じた。三谷自身も、自分のコメデイ作家だという枠を超えようと思って書いたと語っている。ユダヤ人を絶滅することを目指すような人間が、映画や芸術が好きで係わろうとすることの有様や意味を問うことがこの芝居の基調だ。ただ観ていて、ゲッペルスやヒムラーやゲーリング、あるいはレニ・リーフェンシュタールなどの人物像が、今まで書物や映画である既成のイメージを持っているから、ゲッペルスの小日向文世やヒムラーの段田安則やあるいはヤニングスの風間杜夫の一種喜劇的な演技に最初は戸惑う。また、三谷自身も語っているように珍しく確然としたストーリーが前半は乏しく、三谷はチェーホフを勉強したそうだが、パーテイの雑然とした描写にこのパーテイの芯がみえてこない気もして・・。しかし、後半、小林の演じた執事フリッツが映画についての大権威で、ゲッペルスにとってかけがいのない人物だが、実はユダヤ人でそれも公然の秘密だったことが暴露され、ヒムラーが処理するあたりから舞台は驚くほどの緊迫感が溢れてきて、それまでゲッペルスにへつらっていた映画監督や俳優がゲッペルスの意にそむき人間としての最後の良心を辛うじて守る結末は感動的だ。今までの三谷の芝居に無い異色の感触だった。
 いま朝日新聞夕刊に連載のニッポン人・脈・記<生きること>で、ナチスの絶滅収容所から生き残った「夜とn霧」の作者・ビクトール・フランクルを取り上げているが、そこでフランクルは、ナチスドイツの人間はみな悪魔だという見方を否定して「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか『だけ』だったたのです。(『それでも人生にイエスと言』)。この芝居での小日向や段田のナチのとその他日の人物達の形象が、そいうどんな人間であることかが、明確に描かれ、演じられた舞台だったのだ。

by engekibukuro | 2011-04-29 11:20 | Comments(0)  

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