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9月9日(月)★M「冒した者」★★S「町でいちばんの美女」

★作:三好十郎、演出:長塚圭史、葛河思潮社、神奈川芸術劇場。
「浮標」に続いて長塚は三好の「冒した者」を取り上げた。この3時間の初演当時から理解がたいへんな難物戯曲をけれんみなく正攻法で上演した、この舞台は、出演者、スタッフ全員で、彼らの世代には近くて遠い1952年に書かれた戯曲をデイスカッションしながら稽古して作り挙げた舞台は三好の魂を今の時代に蘇らせたといえる。三好の近代古典といえる戯曲に長塚の世代が真摯に関心を寄せるのは、三好の戯曲を通して三好の鋭利に観察し、そこで生きた日本および日本人への関心なのだと思う。そういう歴史を振り返るモチベーションは、この芝居のテーマである原子爆弾を、福島の原発事故によって改めて高まったからだろう・・。舞台はかろうじて焼け残った東京郊外の大屋敷、この屋敷に9人のまちまちの家族の人間が住んでいる。この屋敷に、「浮標」の主人公だっ”私(田中哲司)”が、「浮標」で”私”の死んだ妻を診てくれていた意志舟木(長塚圭史)の紹介ですんでいる。この9人の共同生活はそれなりに穏やかで仲のよい生活をしていたが、ある日”私”を訪ねてきた旧知の青年須永(松田龍平)の出現で、ここの住民の日常が放火してゆく・・、須永は恋人が視察、その両親も須永がひょんな成行きで殺し、さらに無関係の巻き添え一人を殺してしまった、そのことの新聞記事を住民が読んで、大屋敷の住民は恐慌の渦になる・・・。この松田が演じる須永は、三好が影響を受けたというドストエフスキーの作品「白痴」のムイシキン公爵を想起させる、そして純真無垢のムイシキンが現実の中でもがくように、そしてこの芝居の人類は犯してはならない禁忌、原子核を開発開して爆弾を開発、爆弾をつくった・・。それが”冒した者”・・、その主題を三好が須永がしょわわせてているのだ・・。戦後7年たったこの時期でも再軍備の気配が出てきて、原爆の被害・惨禍の全く消えていない時期なのに、、須永は人間というものに絶望する、みな生きているつもりだが、実は死んでいるのだと・・、だから生死感覚が昏迷していて、自分の殺人事件も現実感が希薄なのだ・・。ムイシキンと同じく、精神失調の疑いをもたれるのも当然で・・。このあたりのこの芝居の成行きは掴み難い、三好自身、この芝居の理解の困難は承知していて、理解するより悟って欲しいといっている。たぶん、今に引きつけて悟るとうのは、世界で唯一原子爆弾を投下された日本人が、その原子で原発をつくり事故を起こす、それは日本人が原爆に拠る惨禍を日本人の倫理的アイデンテイテイとして保持できなかった酬いなのだということ、原発で景気がよくなり豊になっても本当に幸せだったのかという問いとして悟るのが、三好のいう悟りの含意だと考えたい。
この芝居の複雑さは考え出したら切がないぐらいだが、決して退屈するような芝居ではない。あざといぐらい演劇的な変化があり、それをうまく長塚は演出している。不透明でザワザワしている舞台の感触は今そのものだし、役者陣も踏ん張っていて、なにより須永を演じた松田が、難役をこんなにきちんと理解して淀みなく丁々場を演じ抜く演技力の持ち主とは、「あまちゃん」も渋くて素敵だが、驚いた。これは長塚のキャステイングの眼力凄さなのだろう。
★★井上弘久ソロ・ライブ、チャールズ・ブコウスキー作『町でいちばんの美女』から「15センチ」、南青山MANDARA。
町の超別嬪の魔女に籠絡され、一緒に住み、食事制限で飼育されついに15センチまでちじんでしまって、魔女のセックスの道具になり、まるごと魔女の魔界に押し込められて・・・、ブコースキーのエロテイックストーリーを井上が快演、この夏、井上はブコースキーの小説のソロ・ライブという試みにのりだし、新境地を開発し青山のMANDARAというライブプスペースにピッタリの出し物だった・・。

by engekibukuro | 2013-09-10 12:15 | Comments(0)  

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