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12月23日(水)★M芸劇イースト★★S吉祥寺シアタ-

★「書を捨てよ街へでよう」(作:寺山修司が、上演台本・演出:藤田貴大)
 村上虹郎以下男性パフォーマー6人、青柳いじみ以下女性パフォーマー5人、パフォーミングドラマー山本達久、映像出演:穂村弘(歌人)、又吉直樹(芸人)
 同名の寺山のエッセー、舞台、映画から藤田が再構成した舞台だ・・。まず人がパフォーマーが現れると同時に舞台装置のイントレの組み立てが始まる、この舞台、人間のパフォーミングの展開に付随して、インテレの組み立て替えが必ず行われて、インスタレーションの趣が隠れたバックの動態として機能して、パフォーマーの動きを彩ってゆく・・。寺山の作品は純然たるコラージュ作品だが、藤田はさらにコラージュのエレメントを多彩にして、又吉の映像での寺山論、山本のドラム演奏だけでないパフォーミングなどなどだが、根本は青柳がパンフで引用した寺山の文章、「もはや演じるのではなく、人間存在に関わる行為をすることなのであり、その行為をするものが俳優なのだ。演劇こそ現実における創造の起源なのだ」という言葉の体現の表示を綴るコラージュの連鎖が、ひとかけらの瑕疵もなく十全に展開されたという印象が深い。だが、時代の差も歴然とする、寺山のこの作品の発表当時の、ヤボなくらいの作品への動機の深さだけは追随できない、これはその時代の鑑賞者のヤボな感想だ。
★★「鈴木忠志スペシャル・レクチャー」。これは<開館25周年/芸劇フェスチテイバル タデウシュ・カントール生誕100年記念「カントール演劇の二十世紀」>の特別企画だ。鈴木が1982年に富山県利賀村で開催した世界演劇祭において上演したカントールの作品「死の教室」が衝撃を与えたこと、そのことと、鈴木がカントールを呼んだ経緯などを、鴻英良がインタビューした企画だ。私も利賀村に行って観た。衝撃だった。鈴木はこの作品が、20世紀のアウシュビッツなどを含めて歴史に翻弄され続けたポーランド人の恐怖を演劇化した、いやその恐怖を演劇の形で顕在化したことによってポーランド人を覚醒させた、これぞ芸術としての演劇の人類にとっての役割だと語る。同時に、鈴木が自分の集団SCOTで上演しているギリシゃ悲劇「バッカスの狂女」などを例に挙げて、ギリシャ劇の当時のギルシャの社会や国家に対する役割を語り、藝術としての演劇の多大な役割、貢献について語った。非常に感銘の深いレクチャーだった。鈴木が芸術としての演劇と、文化としての演劇を区別しているのも覚醒を促すものだった。現行の東京の芝居は文化として演劇だと思うと納得できる。芸術としての演劇を待望するとしてもだ・・・。

by engekibukuro | 2015-12-24 10:02 | Comments(0)  

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