<   2008年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 

8月26日「家族の肖像」サンプル、アトリエヘリコプターS

作・演出:松井周。客席は舞台を四方に囲んで真下に観る2階。舞台にはあらゆる種類のカラフルなゴミがところ狭しと散乱している。それにいろんな照明器具が林立している。このセノグラフイーは度肝をぬく、何が始まるのだろうと期待が膨らむ。しかし、このゴミにまみれてはじまる芝居は不発だった。話はコンビニの店員と底に出入りする人間関係のつながりやもつれだが、それらの関係や出来事が凡庸で、セノグラフイーにふさわしい強度が薄弱。人間をゴミと同一視するのはいつもの松井のパターンだが、いまではゴミの化身のような強力なキャラクターが舞台を牽引していたのだが、今回はそういうキャラクターが不在。松井の芝居を守り立てる常連の古館寛治、古屋隆太、辻美奈子、羽場睦子らの役もあまり際立つ役ではない。せっかくの才気も今回は空回りして強い印象を残す舞台にはならなかった。しかしセノウラフィーのセンスは目をみはるようなものだった。この俊英には次回に期待だ。
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by engekibukuro | 2008-08-27 10:38 | Comments(0)  

8月25日「9条は守りたい口ベタなあなたへ・・」S

作・構成:永井愛、演出:永井愛、西川信広、ピースリーデイング、非戦を選ぶ演劇人の会。全労災ホール/スペース0.。声高に9条を守ることを叫ぶ芝居でなく、護憲と改憲の両者の主張とそれにかかわるデータを能うるかぎり提出して、9条を守る道筋をさぐり、それを確固としたものにするべく戦う芝居になっていた。両者の言い分を聞く根岸季衣扮する主婦が両者の主張が紛糾して相対化の泥沼で悩む姿が現在の日本人の姿だ。それらの話が重くならず軽妙に進行してゆくから説得力が増す。さすが永井愛だ。この舞台を観て9条を死守するという高揚感はもてないが、9条に関わるあらゆることを考えなければという責務を鼓舞されたと感じた舞台だった。
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by engekibukuro | 2008-08-26 16:02 | Comments(0)  

「ミザントロオプ」TPT、S

作:モリエール、訳:辰野隆、演出:手塚とおる。辰野訳をほぼ忠実にアレンジせずに無名の若手俳優たちが演じた。この芝居は「人間嫌い」という名で知られている。嘘と追従で固められた社会風潮に背を向け、自分らしく鮮烈に生きたいと願うアルセストが主人公。彼が恋するのが奔放に人生を謳歌する浮気な女セリメーヌ。大きなカーテンに囲まれた居間らしき場所にアルセストとセリメーヌを尋ねてくる客が出たり入ったりしてお喋りするを繰り返すだけの芝居だが、今時の若者の感覚でしらっとして糞マジメに古典劇を演じると、なんとも奇妙だが滑稽な芝居になっている。アルセストを演じた岸田研二が、セルメーヌが心底すきなくせに、わざと自分で相手にハードルをあげさせる、小難しい男をなかなか上手く演じていて見応えがあった。面白いのは芝居全体が演出の手塚とおるの役者としての芸風のエッセンスのように感じられることだ。 
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by engekibukuro | 2008-08-26 15:35 | Comments(0)  

「星影のJr」庭劇団ペニノ8月18日S

タニノクロウ作・演出、スズナリ。ラヴェルヌ拓海というフランス人と日本人のハーフの少年が主役。日本と日本語がまだ覚えきれない彼のための教育劇という体裁を持つが、普通の父母がいる普通の家庭でのいろいろな出来事が描かれる。マメ山田の不思議なヘンテコなコウスチュームの妖精が出没し、父が母を殺したり、その母が生まれ変わって犬になったり、異常なリアルとメルヘンが混交した世界。解釈はいかようにもできようが、少年がみた、「ありのままの現実」であることは確かだ。イメージが明瞭であり、現実の論理と夢の論理の二つ流れがむりなく一つの舞台を成就させていた。、
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by engekibukuro | 2008-08-19 11:57 | Comments(0)  

「ガラスの仮面」彩の国さいたま藝術劇場M8月16日

原作:美内すずえ、脚色:青木豪、演出:蜷川幸雄。あの有名な原作漫画を読んでいない私にはありがたいお芝居だった。こlこでは蜷川がこの舞台に出演している若い俳優についての考察をパンフで書いていて、それが今の若演劇人につてのポイントを的確に衝いているので、紹介しておく。「私は今後、このさいたま藝術劇場で、若い世代の俳優を育てる劇団を立ち上げたいと考えている。今回、それを意識して若い俳優とつきあってみて、彼らの世代特有の内向性を、痛烈に肌で感じた。それを”現代の俳優が持っている条件”として認めつつ、多くの観客の前に立つために自分を開くことを理解してもらうにはどうしたらいいか、ことあるごとに考えさせられた。若い世代の俳優を育てるには、若い世代に演劇に興味を持ってもらわなければならない。インターネットを使えば、家の中にいても自分が世界を救った気分を味わえる冒険ができる時代に、彼らに劇場に足を運んでもらうこと、ネットとは正反対のアナログな演劇に興味を持ってもらうこと」。とくに強固な「若い世代の内向性」の指摘は今の若い世代の演劇を考える際の重要なポイントだと思った。
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by engekibukuro | 2008-08-17 09:04 | Comments(0)  

「春の夜想曲」TPS8月15日こまばアゴラ劇場S

北海道演劇財団シアターZOO企画。作・演出・音楽:斉藤歩、演奏:チェロ土田英順、ピアノ伊藤珠貴。札幌の中島公園の池の浮島の季節限定のホテルの別室が舞台。斉藤が話をつくりすぎているうえに、チェロの土田に芝居をさせたりして、内輪の芝居で白けるが、斉藤の作曲した夜想曲は札幌交響楽団のコンサートマスターだった土田の演奏によって十分聴き応えがあるものだった。まあ、音楽会として成功したわけだ。
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by engekibukuro | 2008-08-16 07:28 | Comments(0)  

「足跡のなかで」劇団青羽(ソウル)8月14日S

タイニイアリスがソウルから呼んだ劇団だ。日本の舞台では目にできない種類の新鮮で面白い芝居だった。舞台は街外れの米屋。この店で殺人事件が起きて閉店中の建物に画家が引っ越してきてアトリエにする。近所の人々は米屋の再開だと思って買いにくる。米屋がないと困るから米を置けとうるさいので、画家は自動販売での米をおく。米を入れる袋に画家は絵を描いた。そのうち米以外の米にはキムチがつきものだとかいって、商品の数を増やされてついにはアトリエは雑貨屋になってしまう。画家は米袋の絵を評価されたか、個展も開くが、いつの間にか店主になってしまい絵を描かなくなる。ここのあたりの推移は字幕だけでは分かりにくいが・・。しかし、また思い直して商品を売らず、画家にもどる?とにかく画家は人間にとって米が大事で絵画は入らないという民衆の話に真剣に悩む。この芝居は藝術と生活について大真面目に議論するのが最大の魅力。それもシンプルな装置、ライトタッチの音楽にのって、人々がリズミカルな早足で出没するのと、形而上学的な議論が並立する面白さだ。だからとてもさわやかで、自分も考えなければと自然に思わせられる。シニシズムのかけらもない。画家を演じた李憲在はイケメンで魅力的だし、ほかの俳優たちもユーモラスで軽妙。ステキなアンサンブル。よくわからないところも多々あるので、「シアターアーツ」に掲載されるはずの戯曲を読んで再考したいが、分かったかぎりでも有意義で面白い舞台だった。、
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by engekibukuro | 2008-08-15 15:51 | Comments(0)  

「由比正雪」流山児★事務所8月11日S

唐十郎作、流山児祥演出、本多劇場。この芝居は69年の新宿西口公園でのあの「腰巻お仙」上演事件の前の年68年に花園神社で上演されたが、観ている人は少なくて幻の芝居のようで扇田さんも観ていないそうだ。この芝居は唐の芝居の臭いが全く感じられない。セリフも唐ワードでなくて、唐の作とは思えない感じなのだ。正雪の時代の江戸、島原の乱、天草四郎とか、それらの事件についてのナレーションを入れるとか、芝居全体がアングラのコードを使っていない「普通の芝居」なのだ。その時代を彷彿させる吉本隆明「言語にとって美とはなにか」をもじった、「剣にとって美とはなにか」などのセリフが頻発するが・・・。つまりアングラ芝居、唐独特の芝居の最前期の作品なのだ。だからこの芝居を観て福田善之の「袴垂れはどこだ」を思い出した。唐は福田がリーダーだった劇団「青藝」にいた。歴史上の人物に現在を重ね、江戸のアウトロー、浪人正雪の時代への反逆を描き、クウデターを起こす話は福田の作風をかなり忠実に学んだ芝居だと如実に感じさせた。流山児がこの作品を掘り起こして上演したことは、唐の作品の理解のためにも演劇史的にも有意義なことだった。テクストを損なわないきちんとした舞台だった、長年下積みだったイワオが柳生十兵衛という大役をもらって、とにかくサマになっていた。嬉しいことだ。  
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by engekibukuro | 2008-08-12 09:30 | Comments(0)