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1月30日(日)メモ








▼シアターアーツ次号の「舞台人クローズアップ」の取材のため、下北沢シャノアールで扇田拓也君に会う。昨年の「ピクロテーテス」への出演、ヒンドウー五千回の劇作・演出、てがみ座「乱歩の恋文」の演出、お父さん(昭彦氏)の話を聞いいた。彼はとてもユニークで、面白い話を聴けた。
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by engekibukuro | 2011-01-31 10:36 | Comments(0)  

1月29日(土)M「風のほこり」(作:唐十郎、演出:金守珍)

新宿梁山泊、芝居砦・満点星。この芝居は、梁山泊に唐が始めて書き下ろした作品。梁山泊が唐の「風の又三郎」をもって韓国で公演していたとき、唐がソウルに届けにたきたという。大学ノートに100数ページ、全くの書き直しの痕跡がない、小さな文字できちんと書いてある。この砦のロビーにそのノートが鑑賞用に置いてあるが、見事なものだ。
 この芝居のヒロインのモデルは唐のお母さん。舞台は昭和5年の浅草。彼女はそのころ全盛期の浅草の軽演劇の小さな劇団の文藝部員。芝居は彼女をめぐる芝居ものや、町の有象無象能の連中の話だ。だから、この芝居の初演は浅草の木馬館だった。初演からのヒロインは渡会久美子。相手方の三郎は初演は六平良政、今回は広島光。金が開幕の挨拶で言っていたとおり、この芝居は難解、といより唐芝居の晦渋さの度合いが濃厚だということだが、”わかる”ことを抜きにして、唐の母親や当時の浅草へのいうにいわれぬ個人的な思いの濃さを、そのムードを楽しむのがいい。金の演出もその線で、奈落の文藝部の部屋には水が張ってあり、奈落から上の舞台へはスパイラルな階段。これらを使っての水が飛び散るスペクタクル、当時を彷彿させる音楽でムードをいやがうえにも高めた。またこの部屋には、得体の知れない役者やアウトローが頻繁に出没する。
そして状況劇場OBの十貫寺梅軒、田村泰二郎が売れない役者を演じて舞台を賑やかにして、唐組からの客演の唐芝居の第一人者・鳥山昌克が、義眼商人を圧倒的な貫禄で演じて舞台を締めた。その百個以上の義眼の入ったトランクに入ったショーケースはまったくみのだった!梁山泊は正月には、この芝居を毎年上演すると決めたそうだ。
▼メモ。筑摩書房版世界文学全種でチャールス・デイッケンズ「荒涼館」(1)を読了。面白い!
・おもろ、カップルと久しぶりに岸本さんに会った。郷里の鳥取・倉吉は大雪だと・・・。
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by engekibukuro | 2011-01-30 09:23 | Comments(0)  

1月28日(金)M★「投げられやすい石」S★★「公の園」

★作・演出:岩井秀人、ハイバイ、こまばアゴラ劇場。佐藤(岩井)と山田(松井周)と美紀(内田滋)美大の同級生。佐藤はトンガッタ作品で注目を集め、山田も個展を開いて初めて絵に値段が付いた。美紀は佐藤のカリスマ性に惹かれ佐藤の女になった。しかし、佐藤が理由もつげずに美紀を嫌いになったという手紙を残して失踪してしまう。美紀は山田と結婚する。2年後佐藤から連絡があり、山田と美紀は再会する。佐藤は難病で異様な姿に変貌していた。再会は佐藤の思い込みの激しさでまったく不調に終わる。よくある話ではある。しかし、この芝居は話の本線より、ごく些細な細部の齟齬を劇的に緊張させる岩井の鋭いセンスが光った。そのセンスが風変わりで類をみない舞台に仕上げた。コンビニの店員(平原テツ)とのちょっとしたラブルのシーンなどの劇的効果などの面白さ。そして、岩井、松井、内田の演技の絶妙なアンサンブルルがよくある青春のつらい一こまを忘れがたいものにした。
★★作:上杉祥三、演出:野崎美子、新宿シアターモリエール。公演のベンチで毎日旧約聖書を読んでいるマリヤ(浅野温子)、アル中で子供の親権を奪われた喜美子(長野里美)、妻子ある男の子供を2回おろして、3度目の妊娠中の詩音、この三人が公園でありあう。マリヤも複数の外国人を相手にして父親が特定できない子供を産み、その子が外国に里子の出された体験がある。3人の女はマリヤの聖書の話を中心にして、自分の不幸な体験を喋りあう。不幸につけこまれて霊感商法にひっかかり大金を獲られたことがある喜美子と詩音。お喋りがどんどんエスカレートして、3人でカルト宗教を立ち上げることにまで発展。結局失敗するが、最後に神の存在を信じるかのマリヤの設問は、日本人が日常つかうコトバ”おかげさまで”という”おかげさま”が神・超越的なものだと3人は一致する。そして3人は立ち直りの兆しが濃くなったのだ。上杉の聖書や宗教に関する台詞がわかりやく、3人のそれぞれの会話がとても巧く書かれているのに感心した。3人の女優はその会話を活かしきった活気がある舞台だった。
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by engekibukuro | 2011-01-29 11:37 | Comments(0)  

1月27日(木)M★「断食」S★★「会議」

★作:青木豪、演出:いのうえひでのり、おにぎり旗揚げ公演、座・高円寺。
 新感線の多人数の大掛かりな舞台をてがけているいのうえが、たった3人(村木仁・池谷のぶえ・市川しんぺー)の演出をするのだから興味深深で観に行く。青木は堅実な作家だが、今回は趣向が違う。主人公の男の母親が田舎で死ぬ。母親は自分のクローンをクローン制作・管理会社で作っていた。まあ、一種のSF仕立ての芝居で、男はこのクローンと生活することになるのだが・・・。青木にしてはめずらしいきわどい台詞が頻出するし、現実と悪夢が交差する芝居なのだが、どうも狙いがどこにあるのかつかみきれない、途方にくれるようなところもある芝居だった。
★★作:別役実、東京乾電池、ゴールデン街劇場。
 1時間10分で終わる芝居だが、別役芝居の不条理性の内実、意外性、突発・鎮静・強引など、その急変する様々な局面をあっというまにみせて、別役劇のエッセンスを感じさせた舞台だった。

▼メモ。座・高円寺の帰りに高橋豊さん、山田勝仁君とカフェにゆき、今観た芝居を検討した。
・「会議」観劇後に、谷岡健彦さん、堀切克洋君、それに扇田拓也・石村美果ご夫婦、あとから乾電池の嶋田健太さんも加わって呑む。芝居の話、俳句のはなし。アルトー研究者の堀切君も俳句をはじめて、めきめき上達して先輩の谷岡さんに脅威を感じさせているようだ。彼の”鯨には海は大きな水たまり”(うろ覚え)という句は鯨の海への制覇性を見事に衝いている・・・・。敬老マインドで皆さん接してくれて、楽しい一晩だった。
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by engekibukuro | 2011-01-28 11:03 | Comments(0)  

1月15日(火)S「青空・・!」新妻聖子ひとり芝居

作・演出:東憲司、トム・プロジェクソ、赤坂レッドシアター。
 絵本作家をめざしていたサナエは、小さな絵本・児童文学を出版している会社に勤めるが、自分がとうてい絵本作家にはなれないと諦めて会社を辞める。そして逃げ場として、祖母が戦後も暮らしていた戦争中につくられた防空壕にやってくる。そこは電気もつくし、冷蔵庫もあって充分生活ができるのだ。そこで祖母は紙で動物をつくって、机の上には様々な動物が紙でつくられている”紙の動物園”だった。部屋の中央には、祖母が完成できなかった天井まで届く、大きなキリンの像があった。サナエはそのキリンを完成させることと、祖母が残したサナエあての何冊ものノートを読むことを当面の課題にして暮らしだす。毎日祖母が座っていたゆり椅子に祖母が生きてい座っていると仮定して架空の会話を交わすのだ。そういう自分をみつめなおす会話とキリン完成の作業をくりかえす果てに、ホントウの自分を取り戻し、キリンは両翼に翼をつけた。ペガサスのようなキリンは暗雲をぬけて巨体が青空を突き抜けた。祖母のノートには、悲しいとき、嬉しいとき歌う歌を指定sしてあって、楽譜も付いていた。芝居のそういうときに、新妻は歌う。「鯉のぼり」や「黒い瞳」など、ひとり芝居の負担感は新妻のステキな歌声で客も彼女もやわらいで、紙の動物を通した彼女と祖母の交流記はおわる。はじめての新妻のひとり芝居は客席で充分溶けた。
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by engekibukuro | 2011-01-26 11:12 | Comments(0)  

1月22日(土)M「糞尿譚」劇団俳小

原作:火野葦平、脚本:池田真一、演出:入谷俊一。東京芸術劇場小ホール。
 「糞尿譚」は第六回芥川賞受賞作、火野は日中戦争で出征していたので、授賞式は戦地で行われて、日本から小林秀雄が赴いた。
 場所は北九州の地方都市。酒と女で財産を食い崩した男が、一念発起してトラックを購入し、糞尿汲取業を営むものの、地方政治の党派争いに翻弄され、挙句に会社そのもを二束三文で騙し取られてしまう話。
 やることなすこと裏目に出て、妻子にに逃げられるこの男が、なにかあるごとに呟くのが、幼いときから習い覚えた”ジュゲムジュゲムゴコーノ・・”というコトバで、それを念仏のようにつぶやき続けて・・便所を回る。
この男を独特の演技で勝山了介が演じて面白いが、他の俳優たちの演技力のバラツキが目立つ。


▼メモ。おもろ。今日はカップルだけだった。昨日のサッカーの話、強くなったな、日本のサッカー・・。彼はおもろで呑むのはビールだけ。店以外で、家でも月100本ぐらいビールを呑むそうで、それもキリンビールのみ。
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by engekibukuro | 2011-01-23 08:36 | Comments(0)  

1月21日(金)













▼メモ。図書館で各種雑誌を読む。「群像」には岡田利規の小説が、古井由吉の小説と並んでいた。岡田の小説は、世界各地を回るコンテンポラリーダンスのダンサーの奥さんの話。奥さんは日本でふつうに働いている。「文学界」では、その岡田が、北九州での「文学」のシンポジウムの報告。演劇と比べて人間関係があたりまえみたいだが、希薄だと書いてあった。近頃評価が高い佐々木中の文章を「すばる」ではじめて読んだ。視力が3・5あったそうで、アフリカの原野やモンゴルの砂漠では必要だが日本では、電車の一番はじに座って、一番とおい中吊り広告の文字が全部読めたり、スーパーに入った門口で、遠くの商品の成分表まで読めてしまうぐらいの利点(?)しかないという話で、軽いエッセイだが面白かった。
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by engekibukuro | 2011-01-22 10:13 | Comments(0)  

1月20日(木)S「国民傘」(作・演出:岩松了)

 ザ・スズナリ。副題はー避けえぬ戦争をめぐる3つの物語ー。俳優は一般公募のオーデイションで選ばれた若手俳優が中心だが、老舗劇団円のベテラン石住昭彦も混じっている。
 テーマは戦争。しかし、岩松流の戦争観はなかなか複雑で捕捉が難しい。朝日新聞の紹介記事(山口宏子
)によれば岩松は、なぜ戦争という現象が起きるのか。「例えば遊園地で、大勢の親が遊具の中にいる我が子を食いいるように見守る姿に戦争に等しい何かを感じた。親が子をかわいいと思うのは当たり前だが、何かを守ろうと思った瞬間、人は戦闘態勢に入っている。そういう戦争の『始まりを考えてみたい」と語っている。芝居のつくりかたも「最初は短編を3本書こうと思ったのですが、それらがバラバラではつまらない。そこで、三つが互いに批評し合う作品を考えた」と。開幕、母と娘が登場、そこへ戦闘服の兵士と遭遇、場面がかわると小さな印刷工場があらわれる。この工場のねじれた人間関係、それと国家が設置した「傘置き場」を勝手に移動させた罪で牢につながれてしまうさっきの母と娘(これが「国民傘」というタイトルの由来か)、つまり、母と娘、古びた工場の人間たち、さまよう兵士たち、この三つの話が複雑に混入されている芝居だ。しかし、その三つの話が「戦争」という現象が起きる要因だと判じられるツボにはまったとは感じにくいのだ。
 岩松という劇作家はフツウの意味ではなかなか解りにくい作家で、むしろその解かりにくさが魅力になるような作家なのだ。けっして高踏的だとか客を無視した一人よがりなのではない。岩松を肯定的な意味で狂気の作家だといったのは蜷川幸雄だが、その芝居でこれだとひっかかったポイントでまとめてみて隔靴掻痒でおちつきが悪いのだ。いまだに確定的な岩松論にだからお目にかかったことがない。この謎にひっぱられて追っかける作家なのだ。この舞台でもチェロの生演奏があったり、突如骸骨の女がでてきたり、親切で面白いのあだが雲を掴むような印象を消しがたい。ただ、岩松がかって書いていたこと、唐十郎が岩松に”岩松君、芝居は最後に一本のリリシズムの線が走ればいいんだよ”といわれ、自分もそれを支えにしていると。これは岩松の芝居を観るときのこちらも支えに出来て、この舞台でもラストに窓から濃厚な緑の植物の密集が現れた瞬間、その一本の線が走ったと感じられた。これでいい。
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by engekibukuro | 2011-01-21 11:10 | Comments(0)  

1月19日(水)S「浮標」(作:三好十郎、演出:長塚圭史)

葛河思潮社第一回公演、神奈川芸術劇場大スタジオ。
 この舞台が神奈川芸術劇場の実質的な杮落とし公演。それにしても今時こんな贅沢な劇場ができるとは驚きだ。建物の中央のエスカレーターで登った5階が大スタジオ。舞台は木製の幅広い枠に囲まれている白砂。その枠の右側、左側に椅子があり、役者がその椅子出番まで待機する。休憩2階の4時間にわたる、きっちりした3幕芝居。その4時間がすこしも飽きない、まさに杮落としにふさわしい見応えのある舞台だった。舞台は房総の海辺にある家。そこに画家の久我五郎の妻美緒が、重い結核の療養をしている。久我は献身的に妻の介護に尽くす日々だ。これは作者三好の実体験にほぼ近いという。時は、第二次大戦の前夜の暗雲立ち込める時代。天才画家といわれた久我だが、いまは画業もいきずまっていて、画壇からも干され、生活のために子供向きの絵を書き借金を重ね、介護と重なった苦闘の毎日を送っている。妻の母親は妻名義の財産の書き換えを強要してきたり、悩みはかさなる一方だ。それでも家事の面倒をみてくれる小母さんや、つけをしてくれる近所の商人に助かられてなんとかすごせている。
 芝居の芯は、久我の言動の一瞬一瞬の熱量の高さ、長塚がこの戯曲にのめりこむほど惹かれた要因だという生と死にぎりぎりまでに向かい合っているその熱量だ。訪ねてくる友人や親切な医師との会話で、久我はエキセントリックにまで興奮して向かい合う。善悪の問答が度外れで、常軌を逸して関係を悪化させたり、平謝りにあやまったり・・。その久我を演じた田中哲司が素晴らしい。長大な台詞をこなし、感情の振幅が異状に激しい人物をみごとに演じきった。この芝居の成功は、この田中の演技で確証され、長塚の三好への敬愛はこの舞台で果たされた。しかし、田中以外の塚を座りっきりで演じた藤谷美紀も小母さんの佐藤直子も総じて出演者全員が戯曲の人物をきちんと演じて、田中を中心にしたアンサンブルが整えられ、三好の戯曲が現代に蘇った。新劇の伝統や風習からまったく切れた、現代劇としての更新だ。余分なのり代がなくなった今の時代がよびよせた舞台だともいえて、若者演劇(小劇場)の変貌の兆しを感じた。人間の生死、時代の趨勢にきちんと向かい合った三好の存在が若い演劇人が正対した舞台として感慨は深い。
▼メモ。京極夏彦「死ねばいいのに」を読んだ。主人公のフーテンまがいの度会ケンヤという若者がまわりからは不幸だと思われ、当人は幸せだとおもっているいわば聖女を殺す。その聖女にかかわった人間たちの偽善を暴いてゆくケンヤを描いて、その殺人を聖化した小説。ケンヤという現代の若者が忘れがたい傑作にちかい小説だ。
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by engekibukuro | 2011-01-20 14:36 | Comments(0)  

1月18日(火)★新国立劇場★★青山円形劇場

★「わが町」(作:ソートン・ワイルダー、翻訳:水谷八也、演出:宮田慶子)
 この芝居は1938年にブロードウエイでの初演いらい、世界中で上演されている。わが国でも戦前森本薫の訳で上演され、戦後文学座でも上演され、またこの芝居の日本を舞台に翻案されたMODEの松本修演出の「わたしがこどもだった頃」という秀作がある。この舞台での原作のエミリーとジョージにあたる役を演じた黒木美奈子と有薗芳記の演技が忘れられない。それほどポピュラーな芝居で、小さなアメリカの町で暮らすごく普通の人々の生と死をみつめたワイルダーの視線の、その眼光が客の心を捉えて離さない芝居だ・・。しかし初演当時は賛否が別れていたようで、なかなか複雑だったようだ。パンフレットの一ノ瀬和夫のよれば、初演当時は大恐慌の時代で、そういう社会的な現実を見ないで、歴史を超越して永遠の相から人間をみつめる芝居は現実逃避だと思われた。また訳者の水谷の紹介では、劇作家エドワード・オルビーは”「わが町はあらゆる戯曲の中で、もっとも非情、かつ悲しい作品のひとつだ”と語り、また”この戯曲がいつも甘い感傷的なものとして上演されることを嘆いている”そうだ。座談会で文学座の坂口芳貞はテネシイー・ウイリアムスの「回想録」でワイルダーが「欲望という名の電車」をえらそうにこきおろしたことを語り、ワイルダーの上から目線を気に入らないという・・。また一ノ瀬はこの芝居がテーブルと椅子だけの舞台であることの、ワイルダーが京劇や能をも熟知したきわめて当時としては実験性の高い作品だとも書いている。しかし、水谷が紹介している劇作家ランフォード・ウイルソンの「『わが町』が徹頭徹尾シニカルで、冷酷なまでに正確な戯曲だという事実を見逃してしまう」という言葉が正しいなら、これほどポピュラーな芝居になりえただろうか。今回の舞台は、そういうこの戯曲の世界の複雑さを充分再考させてくれた舞台だった。ただ、中ホールの広さが、ニューハンプシャーの点のような町グローヴァーズ・コーナーズのコミュニテイの生活の空気の凝集度を希薄にさせていた感じがあった。しかし、しかし墓を穴に見立てたアイデイアはこの芝居の要の生と死の接線の明示を確保していた。町の人々にさいたまゴールドシアターのメンバーが出ていたことも嬉しい。
★★「ちんけさんと大きな女たち」(作・演出:近藤芳正)近藤のユニット・バンダラコンチャの芝居。売れない役者を演じる近藤をめぐる「南海キャンデイーズ」の山崎静代など10人の女たち。舞台上でいろいろあっても近藤は仕合せせそうだった。
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by engekibukuro | 2011-01-19 11:43 | Comments(0)