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8月30日(火)メモ





▼伊集院静「いねむり先生」(集英社)を読んだ。伊集院(作中ではサブロー)と朝だ阿佐田哲也・色川武大(作中の先生)との交友記・・。伊集院の小説はちゃんと読んだのは初めてだが、とても面白かった。こんなに気持ちが良い、読んでいて気持ちが高まってくる小説を読んだのは久しぶりだ。随分売れているらしいいが、納得だ・・。全編にみなぎる先生に対する敬愛の念の流露がすがすがしく、先生の挙措、言辞の複雑きわまりない人間像も見事に描かれていて、競輪場や街の底にうごめくばくち打ちにも敬愛の念を起こさせるのも自然とわかる・・・。サブローは若くして妻(夏目雅子)が病没して、そのショックで精神的に立ち直れなくなって、精神が錯乱し、酒に溺れて競輪場をうろつくような生活をしていた・・。それがやっと立ち直れるような時期に先生と出会う。先生もサブローを気に入り、二人で競輪の旅打ちに出かけるのが二人ともの無上の楽しみに・・。いろいろのエピソードがあり、四国・松山では場末の映画館で先生が映画を観ようと誘うが、映画館に夏目雅子のポスターが張ってあり、サブローの精神がおかしくなって・・民宿のばくち打ちがの主に救われて・・。弥彦の競輪場では、泊まった温泉宿で妻子を事故で亡くした妙な男に出会い、突然サブローが昔から悩まされてきた”幌馬車”の悪夢で錯乱、男もクスリと酒で錯乱、先生もクスリと酒で同調し、3人ですっ裸で泥田の中を踊りまくる・・このシーンは圧巻だった・・。サブローは諦めていたが、先生はサブローの小説の才能を認めていた・・。先生は死んだが、サブローは小説家になったのだ・・・。
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by engekibukuro | 2011-08-31 09:32 | Comments(0)  

8月29日(月)メモ


 第四十四回八月湯島句会。投句者97名、出句数485。5月から参加して毎月増加、今月も大変な盛会で俳句の質も洗練されてきたと素人目にも感じる。谷岡健彦さんは、”これだけ多数の句の中から選句されるのは宝くじに当たるようなものですよ”と言っていたが、その彼の句が3句選ばれた。兼題は”星月夜、新豆腐、当季雑詠”
 ・八月の真昼の黙の深きかな”・”天馬いま海渡らんと星月夜”・”ひそやかな月の言葉を聴く夜かな”
それと結社誌「銀漢」に連載してる「せりふの詩学」で今月取り上げたデイヴィッド・ヘアの「鉄道」の紹介がいいものだった。この芝居は燐光群が上演したが、この文章を読んでいればもっと理解が深まったと思う。この舞台では、谷岡さんがポイントだという鉄道事故で息子をなくした母親が遺体に違和感を感じたというシーンがあったにしても、なにも感じなかった・・。

 掘切克洋君も快調で彼も4句も選ばれた。
・”文学は虚学だろうか新豆腐”・”新豆腐ふたつ前歯が欠けてをる”・”新豆腐きのふのひととすれ違う”・”新豆腐けふもぶつかりあってゐる”・・・・・・天衣無縫な知的たくらみ・・なかなかなものだ。
 わたしの句はかすりもしないが、全く俳句のテイをなしていないことが分かっただけでも収穫で、いずれなんとかなると思って句会を熊井を楽しもう・・。
・松川洋酔さんに句集「家路」を戴いた。
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by engekibukuro | 2011-08-30 10:10 | Comments(0)  

8月28日(日)メモ




▼「文学界」9月号のつかこうへい「鯖街道」を読んだ。新国立劇場で上演されるはずだったが、未完のままつは急逝した。掲載された「鯖街道」は小説と戯曲の2部構成になっており、Ⅰは「志乃のこと」これは小説、Ⅱは戯曲でタイトルは「欲望という電車」、この「鯖街道」の草稿は5つあるそうで。そのうちの2つが掲載されたのだ。鯖街道とは福井の海でとれた鯖を、すぐ腐る鯖に一塩振って、峠を越えて京都までもってゆく。峠で揺られて塩が塩梅良く身にしみて、”天子さまも喜ばれた”ほどに美味になり、京都の町民たちは争って買ったそうだ・・。その鯖の行商人の1人の榊原が、それで財をなして榊原財閥となり権力ともt結びつく・・。その榊原が自分の妾の志乃を1人息子の形だけの嫁にして、披露宴を開く・・。息子はその志乃が元々好きだったのっで、甘んじて屈辱を受け入れる。初夜も父親に抱かれる志乃を置き去りにされるのに・・。その息子は陸軍士官学校をでた仕官で、5.15事件のテロに加わり、父親も天皇にかかわる陰謀に加担している。この父親は自分の娘を犯し、自殺させ、妻も自殺・・。加虐と被虐、差別、被差別、愛と性のアンビバレンツのつか的世界のオンパレードで、なんとも凄まじい・・。戯曲は小説と同一の構造をある劇団の話に転化する。財閥は劇団の座長に替わり、座長の女の女優は、座長の息子の役者にくっつける・・。ただ、この座長はもう高齢でくたばりぞこないだが、まだ役者への未練が残っていて舞台に出たがり、座員の困りもので・・。葛藤や諍い小説と同様だが、設定が舞台に出たがる座長をいかに騙して舞台を終わらせるかということになっていて、まあ、最後は息子の最後の温情で舞台で最後を飾るのだが・・・。つかのテキストは稽古で大幅に変貌するからどんな舞台になるか見等もつかないが、是非是非観たかったと思わせる戯曲だ・・。あれこれの役を誰が演じるかあを想像するのも楽しい・・。河野孝の周到な解説がつき、理解が深まる。
・「at」09号をジュンク堂の椅子で読む。シンポジウム「震災・原発を新たな社会運動へ」-いとうせいこうの司会で大澤真幸、柄谷行人、山口二郎、磯崎新、浅田彰、岡崎乾二郎、丸山哲史。柄谷は”わたしはデモに行こう”いうためだけにきましたと発言。当代の知性たちの種々の発言も未曾有の震災・原発に対してはこちらに響く言葉がない・・。結局。最後の磯崎の発言、”つべこべいわずにやること”つまり”つべこべいわずにデモに行こう”ということか・・・。柄谷の「自然と人間」という論考も・。これは柄谷の「世界史の構造」と震災・原発を結びつけた”エントロピー論・・。
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by engekibukuro | 2011-08-29 09:10 | Comments(0)  

8月27日(土)メモ





▼ポーランドの巨匠イエジー・コリモフスキ監督の「エッセンンシャル・キりング」を渋谷イメージフォーラムで見た。「ランボー」とアンドレイ・タルコフスキーを足して割ったような作品だが、私がいままで作ったなかで最高傑作だと監督自身が語り、そのとおりでヴェネチア国際映画祭で受賞したのだ。とにかくヴィンセント・ギャロが演じる男は一言も喋らないで、ただただ逃げる映画・・。多分アフガニスタンあrしらしき土地で米軍に追われているのだが、この男がテロリストなのか、ゲリラなのか分からない・・。酷寒の険しい山岳地帯を米軍のヘリに追われて逃げる・・いったんは捕まるが、護送車が谷底に転落したので、米軍の服を奪って逃亡、木の実を食べ、野犬に追われて逃走するのだが、アッラーを讃えるコーランが聞こえてくるイスラムの土地で追われていると思ってみていたら、いつのまにか東欧の雪山に場所が変わっていて、空腹のあまり麓の道で赤子に授乳している母親を襲って、片方の乳房にむしゃぶりつき母乳を吸う・・。最後にへたり込んで倒れた男を家に入れて保護した女が口がきけない聾唖者だった・・この女が男を白馬にのせて送り出すのだが・・。最後は墓標めいた花一輪・・このラストのシーンはまさしくタルコフスキーだ・・。迫力たっぷりだが、なんとも不思議な映画だった。
・おもろ。中川君に勤め先の”なとり”のおつまみの新製品を沢山いただく・・・。
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by engekibukuro | 2011-08-28 08:54 | Comments(0)  

8月26日(金)S「身毒丸」銀河劇場、ホリプロ

作:寺山修司・岸田理生、演出:蜷川幸雄、音楽:宮川彬良。
 初演は武田真治と白石加代子、この作品は読売演劇大賞の演出家賞(蜷川)、作品賞、女優賞(白石)、スタッフ賞(宮川)を受賞した。再演は身毒丸役を全国規模のオーデイションで選ぶことになり、しかもそれがロンドン公演。5537人の中から藤原竜也が選ばれ、この藤原と白石のコンビでロンドンはじめ海外で大評判になった。また、この芝居で、それまで綿密な演出プランを作っていた蜷川は即興演出を試みた。稽古で浮かんだアイデイアをスタッフの協力で即座に現実化してゆく手法で、以後、蜷川演出はこの手法で舞台を創っている。さて、今回は大竹しのぶと矢野聖人。大評判の白石の持ち役を演じるのは、それだけでも大変なことだが、蜷川が大竹の稽古をみていて台本を従来のものではなく、寺山・岸田ではあるがより寺山本来に近い決定稿の一つ前の台本に替えたそうだ。そのため、大竹の演技のテイストを中心に、白石・藤原コンビとは相貌の異なる舞台に変貌した・・。芝居のアクセントが決まると、それを一つ一つ歌・音楽で追って行く、10本の指に10本の指輪をはめるようにな過激にショーアップされた舞台で、”寺山修司の説教節による見世物オペラ”の基本線がより明確になった舞台だった。お父さん役の六平直政がいい。状況劇場、新宿梁山泊を経て最近は押しも押されもしない役者になった。最初は柄で特をしていると思っていたが、今は柄を生かした立派な演技で、大竹とこの舞台を支えていた。
▼銀河劇場はひさしぶりだ。いつもは品川から運河をみながら歩いて劇場にいゆくのが好きだった。その前に品川駅構内の常盤軒の立ち食いソバを食べるのが楽しみだった。だけど、久しぶりに行った品川駅構内はこじゃれたカフェ街が占めていて、常盤軒はなくなっていた。一番目立つ場所が立ち食いソバ屋では目障りなのか・・。常盤軒は多分50年以上続いた品川駅の名物ソバ屋だったのに・・・。ホームにはあったが、客がだれもいないさびしさで、味もがくっと落ちた。たち食いソバは入れ替わり立ち代りの客の勢いが味に加担するから・・・。これで東京で食べる立ち食いソバ屋はオレにはなくなってしまった・・。劇場まで歩くのも雨がほどくなってやめざるをえなかった。
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by engekibukuro | 2011-08-27 09:38 | Comments(0)  

8月25日(木)メモ




▼伊藤之雄著「昭和天皇伝」(文藝春秋)を読んだ。伊藤は近現代史専門の歴史学者で京大教授。今まで伊藤博文、明治天皇、山縣有朋、西園寺公望などの伝記を書いた。この「昭和天皇伝」は550頁の大部のものだが殆ど一気に読めるほどの、資料をしっかり踏まえているのは勿論だが、一般の読者が容易に読めるような文章で興味深い本だった。多分、昭和天皇の伝記としては第一級の基本図書になるだろう。
 この本の要は昭和天皇が立憲君主j制のもとで、いかに政治に係わってゆくかという問題。内閣から上がってきた奏上を内奏という形で判断するという機能の活かし方。昭和天皇の生涯は、このことの試行錯誤の歴史だった。だから法的には戦争犯罪者として認定されなかったが、天皇のために戦った戦争犠牲者への、また、国に多大の惨禍をもたらしたという道義的責任は痛烈に感じていて、戦後、退位を真剣に考えたが、皇太子もまだ若く、後継できず、さんざん悩んだが、新憲法のもとで象徴天皇として、日本の再建への精神的指導者であろうと決意して留まった。著者は、それが戦後の不安定な政治を安定させ、高度経済成長をもたらし、先進国の仲間に復帰できたとする一方、「他方、同義的責任を負いながらも天皇が在位し続けたことで、日本人の責任観念を明確にする好機を失い、責任観念が曖昧になり続けるという負の遺産を、日本にもたらした。そのため、天皇の死後、1990年代のバブル等、日本人の精神の土台が蝕まれ始めたように思われる」とする。こlれは柄谷行人も言っていたことだ。また、日本人はさんざん天皇を利用してきたという野田秀樹の「南へ」にも通底する。また「あとがき」で、この本を仕上げる最終段階にで大震災がきた。その後の政治の無責任、混迷に目の当たりにして、「天皇は内奏などを通し、抑制した形で、国民の大方の意向を誠実に代弁して政治家たちに伝えてきた。それは、日本の政治を健全な方向に導いていった。現在の政治状況を見るにつけ、昭和天皇が戦後政治に果たした役割が、しみじみ感じられる」と記す。結局、これでは、日本および日本人は強固な天皇がいなければ立ち行かないと思ってしまっても仕方がない・・。これは戦後、天皇が退位しなかったことによって、”日本人のに日責任観念を明確にする好機を失い、責任あ観念が曖昧になり続けるという負の遺産”を清算できなかったこと、自立できなかたことの証明だ・・・。色々意見もでてくるだろうが、大きな示唆に富んだ名著だと思う・・。
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by engekibukuro | 2011-08-26 08:55 | Comments(0)  

8月24日(水)S「女中たち」タイニイアリス

作:ジャン・ジュネ、演出:李潤澤,演戯団コリベ・タイニイアリス共同制作。
 この「女中たち」は3バージョンの上演で、韓国版、日本版、韓日版だ。この日は韓日MIX。クレールはZORAの坂本容志枝、ソランジュはSCOTを離れた久保庭尚子、マダムはペ・ミヒャン。
 舞台には沢山のキンキラキンの着物が飾られれ、造花のバラの群れが部屋の下手を覆っている。いきなり真っ赤な着物を着たクレールが全力で喋りはじめ、黒い着物のソランジュと”奥さまごっこ”を始める・・。韓国で李のワークショップで鍛えに鍛えられ、李が”この芝居は女優のための芝居なのだ”というとおりの成果で坂本、久保庭の演技はいままでの「女中たち」では観たこともないハイテンションで度肝を抜かれた幕開きだった。そして思い切り派手な和服姿のペ・ミヒャンのマダムが出てくると、ますますヒートアップ、ペの日本語の台詞のアクセントの面白さ、彼女の群を抜いた可愛い顔などの相乗効果で真っ黒な笑いともいうべき喜劇性が生じてきたのだ。可愛いらしさは、電話の受話器が戻していないことや、台所の目覚まし時計がマダムの部屋の机にあることなどのクレール・ソランジュソの致命的な手ぬかりを容赦なく指摘する酷薄さを際だてさせるのだ・・。この韓日MIXは韓日の差違そのものが、マダムの階級の快楽と女中たちの貧しさの決定的な差をクローズアップさせるファクターとして生きて、虚飾と倒錯、憎悪と殺意が渦巻くジュネの世界が大きく顕現されて、客に届けられたのだ。
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by engekibukuro | 2011-08-25 10:39 | Comments(0)  

8月23日(火)メモ









▼図書館で「群像」9月号、川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」450枚一挙掲載を読む。女主人子は34歳のフリーの校正者、その彼女と58歳の高校の物理の先生との恋愛と、彼女の仕事をもらう同い年の大出版社の女性校閲担当者との友情を軸に書かれた小説・・。近頃、これほど真正面から真摯に書かれた恋愛小説はない・・。この一見凡庸でとちとめのない女性の突如湧出した、自分で制御できない恋情の放出と行為を微に入り細にわたって書きつきし、恋愛というものの苦悩と歓喜の本体をさらしつくしたと思わせ大変な筆力を感じさせた小説だった。彼女の誕生日は12月24日のクリスマスイブだ・・。楽しみの少ない日々を贈る彼女の唯一の楽しみは、イブの誕生日に光りが輝く真夜中の街を散歩すること、”光り”について教わった先生をその真夜中の散歩に誘ったのだが・・・。いずれ単行本になるだろうが、単行本だったら一挙には読めない長さを雑誌で、それも図書館だと読めてしまう・・・。他に石原吉郎の小説ペシミストの勇気」の再録を読む。読んでこれは昔読んだことを思い出した。この小説についての、奥泉光、山城むつみ、それに川上未映子も加わったシンポジウムも読む。
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by engekibukuro | 2011-08-24 08:53 | Comments(0)  

8月22日(月)M「姑は推理作家」(作・演出:池田政之)

NLT、三越劇場。
 11時開演の三越劇場など初めて・・。この劇場完全平面で、11列9席の正面では前列に背の高い人がいると舞台が役者の上半身しか見えない・・。十朱幸代が演じる落ち目の推理作家が台本を書いた芝居が、チケットが売れず・・・、それを注目を集めようと作家がテレビでこの芝居の上演中にホンモノの殺人事件が起こると予告・・・。舞台は劇中劇を交えて進行するが、話がややこしく、この女流推理作家の息子の嫁が、この芝居の主役の女優で嫁・姑の酷い争いも絡んで、登場人物が大勢の芝居の幕内、刑事、出版社のスタッフなどが入り乱れてなんだかよくわからない・・。しあkし、故・賀原夏子が中心になって設立したNLTは初期はフランスのブールヴァール劇を中心に上演してきたテイストは十分味あえて、客演の十朱と矢崎滋のポイントになり、なにより劇団所属の女刑事に扮する阿知波悟美が舞台を引き締めた・・。
 阿知波は劇団では「佐賀のがばいばあちゃん」などで活躍しているが、大劇場のミュージカル「レ・ミゼラブル」「キャンデイード」などで大きな役を芝居も歌でも立派にはたしている女優だ。まあ、オレ的にはこの人を観られるだけでも満足だ・・・。
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by engekibukuro | 2011-08-23 08:17 | Comments(0)  

8月20日(土)M「奇ッ怪 其ノ弐」(作・演出:前川知大)

現代能楽集ⅵ 野村萬斎監修、世田谷パブリックシアター。
 超常現象やスピリチュアルへの感度が鈍いわたしは、前川の芝居にちょっと馴染みにくいところがあったが、この芝居はすんなり入り込めたし、前川の芝居作りの才能の素晴らしさに感じ入った。舞台は何年か前の災害で廃村になった村の神社。崩壊のままの建物だが、そこにホームレスのような人間が住んでいる・・・。この神社の神主の息子が、久方ぶりに訪れる・・。板張りの平面が舞台の最奥までしぼまれて続く美術(堀尾幸男)が見たとたんに奇ッ怪な出来事の予兆を感じさせて・・・。父の神主は死んでいる。ただ、最近父の霊を見るので、そのことに引きずられてやってきたのだ。神社には山田という男が住んでいた。そこへ開発業者の橋本と地質学者の曽我がやってくる。山田は仲村トオル、橋本は池田成志、曽我は小松和重、息子の矢口
は山内圭哉。その山田が矢口に、この村でおこったいろいろな出来事を物語り始めて・・、仲村、池田、小松はそのエピソーオに係わる多種多様な人物を入れ替わり立ち代りに演じて、それに内田滋慈、浜田信也、岩本幸子、金子岳憲が扮する人物たちに絡む・・。そのエピソード群は言葉で定められないようなややこしさで、水流のように流れ、しだいに内圧が高まって、焦点が絞られて・・、ラストの祭りの準備の神社の情景になる。
祭りの前夜のうきうきした雰囲気が舞台を膨らませた頂点で暗転、明りがつくと息子だけが残りあとは無人、息子以外は全員死者だった・・。災害の轟音も全くない、無音の裡に惨禍を一瞬にして感じさせた。2009年にシアタートラムで上演された「奇ッ怪 ー小泉八雲から聞いた話ー」のアフタートークでまん萬斎から示唆されて前川は能狂言を学習したそうだ。それが今回の「現代能楽集」に結実したのだが、能狂言ぽい外装は一切なく、きわめて知的に能の死者との係わり、狂言の生の愉快な豊かさを取り入れた。結果、この芝居は、幽霊・死霊のような死者出現の奇怪さより、我々のココロに宿る死者たちが、ごく自然に身近に偏在していることを教えてれた。芝居はそれを見える形にして、死者との有益な付き合い方を望見させてくれるのだ。仲村、池田、小松、山内らのベテラン役者が、前川と話し合いながら舞台を創ったことがありあり分かる、闊達で起伏に富む舞台で前川の今の演劇の世界での位置を確固としたものした舞台だったと思う。
▼メモ。おもろ。中川君とフイリッピッーナのパートナー・・。モンテンルパやアキノ大統領、イメルダ夫人のはなし・・・、彼女さけが強い、あわもりをぐい飲む・・・。帰宅、地元は夏祭り・・。
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by engekibukuro | 2011-08-21 09:28 | Comments(0)