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2月27日(水)M「マクベス」世田谷パブリックシアター

原作:W・シェイクスピア、翻訳:河合祥一郎、構成・演出:野村萬斎。

 マクベス:野村萬斎、マクベス夫人:秋山菜津子、魔女1:高田恵篤、魔女2:福士恵二、魔女3:小林桂太。この5人の「マクベス」、初演2010年、その再演だ。初演のときは果敢な試みだという印象が、「マクベス」本体への目より上回まわった感じだったが、今回は、萬斎演出の意図が「人間対森羅万象(神)」という明確な視点を据えて、自分の土俵の能狂言のセノグラフイーと演技術をとりいれた独特の「マクベス」が出現した。魔女3人が、魔女以外の登場人物を鮮やかにこなして、今回用いられた大きな布などの、能で常用されている道具や仕掛けも担っていて、この3人の俊敏なアクションが萬歳・秋山のマクベス夫婦の悲劇を浮き彫りにしていった。萬斎のマクベスも破滅に向う急迫が段刻みに明確に演じられてこれは一幅の絵になったマクベスだ・・。ダンセニーの森は緑しいたたる森ではなく、日本の紅葉の森でラストの天井から大量に落下するのは紅葉の葉だ。海外へもこの「マクベス」を上演するそうだが、こういう日本的なセノグラグイーは非常にスマートアに処理されていて、ジャポニスム的なものは払拭されている。そして、この「マクベス」はマクベス夫婦の身の程知らずの野心とその破滅が、森羅万象に嘲弄された結果であることが、多分日本的な虚しさとして体感できたのだ。これは、有名なラストのトウモロー・スピーチ・・・。
 、”明日、また明日、そしてまた明日と・・・・・消えろ、消えろ、束の間の灯火!
    人生は歩く影法師。哀れな役者だ。出番のあいだは大見得切って騒ぎ立てるが、
    そのあとは、ぱったり沙汰止み、音もない。
    白痴の語る物語。なにやら喚きたててはいるが、何の意味もありはしない。”
 このヨーロッパ的な絶唱スピーチと、日本の能狂言の表現を含意した舞台の芸風とのギャップのようなものが、独特のテイストを醸成していた・・。
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by engekibukuro | 2013-02-28 07:37 | Comments(0)  

2月25日(月)M「幻戯(改訂版)」(作・演出:高木登)

鵺的、下北沢「劇」小劇場。
 高木の作品は2011年に寺十吾演出で、前川麻子、宮島健、栗原茂が客演した「昆虫系」を観て、その強烈な作風に強い印象を受けた・・。だが、今回の芝居はでてくる人物が厭わしい人間ばかりで、それがなにか特別な世界に昇華されているとはいいがたく、受容困難だった・・。








▲第62回湯島句会、このところさっぱり選ばれなかったが、今回はお二人から2句選んでいただき、欣喜雀躍、酒がうまい・・。兼題は「梅、雪崩、海苔」
 ★海苔あぶりバターを添えてウイスキー、★★海苔一枚焙って天下の冬を知る
★★は豊臣秀吉の遺臣片桐勝元の”桐一葉落ちて天下の秋をしる”の本家どりのつもりの句であったが、特選をいただき、恐縮至極でありがたく、みなさんに喜んでいただいたのも嬉しかった。
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by engekibukuro | 2013-02-26 09:34 | Comments(0)  

2月24日(日)★M:風琴工房★★S:柿喰う客

★「国語の時間」(作:小里清、演出:詩森ろば、座・高円寺)
 日本の植民地下の朝鮮の小学校が舞台。小学生に母国語を捨てさせ、日本語を強制的に教える”国語の時間”が主題の劇。また創氏改名を強要、この芝居のヒロインの国語の先生は柳という日本語のヤナギでも通る女性教師、この先生と刻苦して日本人になりすますことに成功し総督府の役人にまで上り詰めた男が劇の軸だ。3時間に渡る力作で、人間の尊厳を奪う姓名や言語の改変を強要する日本の歴史的暴挙を、さまざまなエピソードを重ねて暴き、伝えてゆく・・。この劇の真摯な試みは、芝居が多少メロドラマテイックになっているきわみはあるが、今のアジアの中での日本の危険な状況ではアクチュアルで意義があった。満員の客の熱心な観劇はいまの日本人の危機感の表れだろう。アフタートークでの朝鮮近代史の研究者の村田節子先生の話が貴重だった。先生は、この芝居での人物の衣裳が実際の植民地下の朝鮮人のほんとうに貧しい着ていたものとかけ離れいることを指摘、我々の当時の朝鮮についての知識の甘さを知らされた。それと朝鮮史の学者が古代史専門の人ばかりで、現代史の学者が極端に少ないことを憂いて、明治維新の時代からの日本と朝鮮の歴史をきちんと教え、学ばないと日本は中国、韓国などアジアの中で孤立するとおっしゃった。竹島、尖閣などの状況の中でいたずらにナショナリズムを煽ったり、罪責感ばかり募らせるのも、この新帝国主義の時代には進路が見えないこと、そういうことを考える機会を与えた、時宜にかなった芝居だった。
★★「発情ジュリアス・シーザー」(原作:W・シェイクスピア、脚色・演出:中屋敷法仁、青山円形劇場)。
 「柿喰う客」の「悩殺ハムレット(2011)」、「絶頂マクベス(2012)」につ続く、女体シェイクスピアの第三弾、女体・女優12人の芝居だ・・、この芝居、羽織袴と金モールの時代物の衣裳で、口調はベランメイで明治・大正の壮士芝居の趣き、円形劇場のブリッジと劇場の真ん中のまんまる舞台を駆使し、シーザー、ブルータス、アントニオたち、ローマっ子の心意気を、女体・女優12人が全身全霊をかけて演じぬいた、ハイテンションのボルテージを途切らすことのない熱血舞台だった。
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by engekibukuro | 2013-02-25 08:01 | Comments(0)  

2月23日(土)M 東京演劇集団風

「ダンゼン・鉄はいくらかー豚から生じないsyべて・・・」(作:ベルトルト・ブレヒト、翻訳・岩淵達治、演出・江原早哉香、構成:フランソワ・シャファン、レパートリーシアターKAZE)

 ブレヒトの1939年に書いた「ダンゼン」と「鉄はいくらか」の二つの戯曲を、風の芸術監督・浅野佳成と演出の江原の提案により、風の提携劇団フランスのマントウール劇場の、フランソワ・シャファンが台本を書いたもの・。これはナチス・ドイツのポーランドやチェコなどの東欧諸国への暴力的外交政策に対応する農業国デンマークと工業国スエーデンとその特産物を買うヨーロッパ諸国を擬人化して描いた芝居で、登場人物はそれぞれの国を顕す民族衣装を着ている。原戯曲には無かった現在を語るフランス人の女性がでてきて、これをフランス人女優のセリーヌ・リジェが演じる。舞台美術はヴェテラン高田一郎でしっかりしたものだし、俳優陣も看板女優の辻由美子以下、みなまっとうに演じていて、舞台を回遊するセリーヌ・リジェの字幕つきのフランス語でのモノローグも演出家の意図を体現しているのだろう・。それらすべてをちゃんと見せているのだと思うが、内容がよく正直伝わってこない、モノローグも舞台のトーンの変化を示すだけ・・。問題意識が先行しすぎているのか、ちょっとついてゆけず退屈だった・。

▲おもろ。カップル、中川君、芥川賞の黒田夏子「abさんご」の話をしてしまう、私は午前4時に新聞が配達されるのを待って起床するが、2度寝はできない・・、と二度寝のはなし、店主はもう老人の域にさしあっかているが、どこでもいくらでも寝られると・・、若いんだ!
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by engekibukuro | 2013-02-24 09:00 | Comments(0)  

2月22日(金)S ナイロン100℃、CBGKシブゲキ!!

「デカメロン21-或いは男性の好きスポーツ外伝ー」(作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)

 軸は2004年の「男性の好きなスポーツ」の再演だとというが、役者がナイロンのメンバーんほかに、千葉哲也、内田慈、安藤聖などの初顔の客演もあるし、再演を観ている気分より新作観劇だ・・。ケラ芝居には全く珍しく2時間で終わる。ケラはケラは客がストーリーなしの舞台を観る限度は2時間だとしたからだが、つまりは、アタマの地味なスーツ姿の女性たちのたったままのあえぎ声の審査から、次々に艶笑コントがくりひろげられる。娘の同級生に手を出して、娘にばれて自殺する父親がものすけ、万引きした女を公演の男性トイレに連れ込むシャブ中の警官が千葉哲也とかの特定人物はいるが、まあコントの縦糸のようなもので、ひたすらケラが作り出すコントの多種多様を楽しめばいい具合になっている・・。まあいちいちを再録するのがはばかれるようなシーンの連続だが、基本はスポーツ感覚で劣情を刺激するような卑猥さのもでは、すれすれに遠い。女性の4文字言葉の連呼を登場する男女全員で、教会ミサ曲みたいに荘厳に合唱すると、卑猥語ははるかに昇華されて天井に昇ってゆくのだった・・。濃厚エロスはシャブ中警官と松永玲子の有名タレントのヤバイ情事シーンで男女ヴェテラン役者のさすがの貫禄だった・・・。

▲AICT賞の選考会が渋谷の元ジャンジャンのルノアールであり、候補作の扇田昭彦「井上ひさしの劇世界」と梅山いっき「アングラ演劇論」が両方受賞することに決まった。選考委員は京都大学名誉教授の喜志哲雄先生と能楽研究の学者小田幸子さんとわたしの参院で、両著とも好著だと意見が一致、扇田さんの本は井上ひさしに冠する断然の定本だし、1081年生まれで、アングラの舞台を観ていない世代が、活字資料とインタビューなどだけで、これほどアングラ演劇が「言語の演劇」だという彼女の見解を立論できたことを評価したのだ。
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by engekibukuro | 2013-02-23 10:02 | Comments(0)  

2月21日(木)




▲文藝春秋で芥川賞受賞作品の黒田夏子「abさんご」を読んだ。まあ、こんなに読みにくい小説ははじめてだ。横組みでほとんどがひらがな・・。選考委員でこの小説をまったく認めていないのは山田詠美だけ、”一人でいいきになっているトッポイ”と、宮本輝はやっと読みおわり、こんな小説はなんなんだといったん怒ったが、なにか残ったので、無理してそれから3回読んで、やっとこの小説の真価がわかったと・・。選考委員だからだろう、とても読む返す気にはなれない、友人の有田さんが”ツマラナイ”といっていたのが納得だったが、この小説が10代のころから75歳まで文学・小説に打ち込んできた成果だということ、作者の達成感そのものは充分感じた。この達成漢は人がなにをいおうが、歯牙にもかけない強さがあるとは思った・・。「文学界」でこの小説を「早稲田文学」の新人賞の単独選考委員として選んだ蓮実重彦と著者の対談では、この小説は音にすると一層よくわかると、授賞式では1ページ暗誦したそうだ、そこでなかに出てきた”小禽”という漢字を、”ショーキン”と読むか夜k、”コトリ”と読むのか迷ったが、”ショーキン”でしょうと作者にきいて、作者がコトリだったらかなにしますと答えた・・、蓮実がメデイアのこの芥川賞の小説にたいする記事やツイッターで、”2,3mページ読んで投げたとうのが多かったが、古館伊知郎がニュース番組でこの小説を2ページほど朗読したのが、とてもよくて思わず拍手したと・・。黒田は1937年、蓮実は1936年産まれ、蓮実がこの小説のテイストが戦前の昭和の様子を描いていることだといっている、36年生まれのわたしは、それは感じたが・・。声をだして読んでみるか・・。
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by engekibukuro | 2013-02-22 07:38 | Comments(0)  

2月20日(水)M「ゴルゴン」(作・演出:鐘下辰男)

演劇企画集団THE・ガジラ、SPACE雑遊。

ひさしぶりに思える鐘下ステージ・ノワール。ゴルゴンとはギリシア神話の女怪、この芝居は男からみた女の不可解、恐ろしさを描く・・・、しかし、彼女たちは必死だ・・。西山水木の母親ととみやまあゆみの娘、母は昔、夫の子供を宿した浮気相手を毎日電話で追い詰めて、その浮気相手がたまりかねて夫にガソリンを賭けて焼き殺してしまった・・。終身刑で刑務所にいるが、せっぱつまって凶行におよんだ顛末を手記で発表し、母世間から疎んじられ、孤立する。唯一の助けは妹で、妹の娘は従姉妹の自分の娘のただ一人のサポーターだ・・、だが、母親の勝手な夢に翻弄された娘は徐々に絶望を深め、難関校に入学し、名のある会社に入るのだが、実は学生時代は誰とでも寝る「便器」といわれ、会社では妻子もちと出来てしまい、子供を堕し、二人目が・・、相手の妻は離婚に応じない、・・、その結果、自分の父親をガソリンで焼き殺した女と同じことをしてしまう、芝居はその娘のそこまで行く経緯を追うのだが、母の妹も浮気相手のラブホテルオーナーの息子との再婚にこぎつけて・・。一滴の救いもない、徹底した暗い話で、その徹底ぶりにおもわず失笑するしかないような芝居で、しかし、不快感なしに見応えがあるのも事実で、芝居の母と娘にまつわる周囲を巻き込む時間の舞台化の構造の緻密さ、あの素敵な西山が、これ以上ないダサイ衣服の格好で、演じてもちっとも楽しくないだろう役を演じて、ダ-クストーリーの要めになっている潔さ・・。そして、こんな世界とはまったく無縁だと思っているが、実は見て見ぬふりで自分たちの現実をやりすごしているのでははないか、とかの恐ろしさがもたげてくる気配をもたらし、また、こ芝居を表だって曰くありげに云々する誘惑も断ち切きられる、この鐘下ワールドを堪能したことになるのだった。
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by engekibukuro | 2013-02-21 07:04 | Comments(0)  

2月19日(火)M「明日悲別で」(作・演出:倉本聡)

トウモローハウス、新国立劇場中劇場。
 北海道の閉山した炭鉱の失職した炭鉱夫が、福島原発に鬱って働き、さらなる苦難にあう・・。という物語だ・・。
 帰りに新宿中央公園の区民ギャラリーで「風しもの村」展を見る。・貝原浩 チェルノブイリスケッチ展と森住卓 福島第一原発写真展との合同展示会だ。貝原は58歳で亡くなった私の畏友だった。このスケッチは大判の「貝原浩画文集 風しもの村 チェルノブイリ・スケッチ」として出版され、村田喜代子著「偏愛ムラタ美術館」で激賞されたものだ。福島原発事故で注目されだしたのは悲しいことだが、貝原のスケッチの素晴らしさがおおきく認知されたことは嬉しいことだ。貝原は1992年以降チェルノブイリ原発事故によって放射能汚染されたベラルーシをたびたび訪れ、その土地と人々の生活を描いてきた。この村の人々は行政の規制を無視し、故郷の村に戻ってきて住んでいる。大半は老人だが、若い人も子供まで住んでいる。老人たちは汚染されているのと、されていなに茸を瞬時に区別して採り食卓にのせる。貝原のスケッチには歓迎されて、貝原がご馳走ご呼ばれたときに食卓のスケッチが何枚もある、テーブル一杯のその土地の肉や野菜の料理がいかにもおいしそうで、貝原は香草入りの酒で酔っ払う・・・。貝原のスケッチの特徴は、日本画の画賛のように描かれたスケッチのそのときの様子を絵のうえに文章でも書く、文章も文字もよくて、スケッチのもうひとつの魅力になっている。遊んでいる子供たち、ダンスパーテイ、さらに結婚式にも行きあわして、カラフルな民族衣装を着た、老若男女のさまさまな表情が、臨場感をたかめるのだ。とくにモノクロームの老婆たちのスケッチが、放射能もなんのそのという気合の、過酷な風雪に耐えてきたスラブ民族の老婆の厳しい表情の迫力たっぷりの群像がきわだつ・・。いま彼らはどうしているのか、森住卓の福島第一原発の写真と同時に見ると、原発・放射能汚染に対する人間の複雑な現実感と真実が放射されてくる、へんに刺激的な舞台を観て不安定な気分になっていたのが、この展示をみてまっとうになった。この会は今日20日まで。
▲新国立劇場は開場いらいいろいろ招待されているが、今日ははじめての2階のてっぺんの席に招待されたのだった。
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by engekibukuro | 2013-02-20 09:39 | Comments(0)  

2月18日(月)★M劇団民藝★★S新宿梁山泊

★「真夜中の太陽」(原案・音楽:谷山浩子、作:工藤千夏、演出:武田弘一郎)紀伊国屋サザンシアター。
 戦争中のミッションスクールの女学生の話・・、中心は日色ともえ扮するおばあちゃん、戦時の音楽室で空襲にあい、皆防空壕に避難したのだが亡くなった、このおばあちゃんだけが、楽譜をとりに音楽室に戻ったので助かった・・。谷山作曲の「真夜中の太陽」の合唱がトーンをつくり、戦時の女学生たちの様子が描かれて、女学生の群像の中に現在のこのおばあちゃんが混じる。ほかに日英混血の英語の先生が特高に殺される話があり、その先生がアメリカ映画のスター・ジェームス・スチュアートに似ていて、そのころ密かに一人の女学生が見たというジェームス・スチュアート主演の「スミス都へ行く」の話が出て、それに関連してパンフレットには民藝の指導者だった宇野重吉が、戦前、自分の演劇の天分に絶望していたとき、なけなしのゼニで見たこの「スミス都へ行く」に感激して立ち直ったという文章があった。亡くなった女学生への愛惜の気持ちはわかるが、芝居としての骨格が弱いのは否めない。
★★「ロミオとジュリエット」(作:W・シェイクスピア、翻訳:小田島雄志、演出:金守珍)芝居砦・満天星。
 梁山泊がロミ・ジュリとちょっといぶかしんだが、なかなか快調で素敵な舞台だった。狭い空間を美術の宇野亜喜良と装置の大塚聡が、移動する角柱の変化で舞台を多色化し、大貫誉の音響と劇中歌が終始舞台を鼓舞して、スピーデイで中身のつまった舞台を金守珍が創りあげた。その演出に見事に応えたのがロミオの申大樹とジュリエットの傳田圭菜、一瞬にして消え去った純愛の結晶にふさわしい気持ちと体が恋情を追い詰める早咲きの危うさをつんのめるように演じおおうせた。芝居はオーストラリアの俳優のマシュー・クロスビーが演じたロレンス神父が大きく支えた。ぎこちないような日本語でのセリフがかえって真実感のこもったロミオとジュリエットへの慈しみを感じさせ、舞台の重石になった。三浦伸子の乳母も面白く、ジュリエットへのせつない気持ちがたっぷり伝わり、ロミオが逃げた隣町のロミオに毒薬を売った貧窮の薬屋が唐組の辻孝彦で、出番は一寸だが流石の存在感で光った。今のこの世の中で、このロミオとジュリエットの純愛劇は一服の清涼剤以上の感銘があったのが不思議なくらいだった。
▲一緒に帰った西堂行人さんは亡くなった岩淵達治さんの通夜にいった・・岩淵さんは転んだのが原因だそうで、林光さんもだし、回復した唐さんもだし、くれぐれも気をうけよう・・。
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by engekibukuro | 2013-02-19 10:24 | Comments(0)  

2月17日(日)

 
▲昨年の演劇書のAICT賞の候補作は、扇田昭彦「井上ひさしの劇世界」と梅山いっき「アングラ演劇論」、その選考のため、両著を再読する。まず「アングラ演劇論」を読むが、初読がいかに読みそこなっていたかがわかり、不明を痛感した。梅山さんの主題が、アングラ演劇が、肉体とか身体による演劇表現の斬新・革命だという認識が一般的だと思われいるが、じつは言語の演劇の新しさだと言うことだった。1980年代に生まれた彼女は、当然アングラ演劇は観ていない。活字資料やインタビューなどで、アングラ演劇を研究し、全体像を復元することは、早稲田大学の演劇博物館の館長の竹本幹夫先生の推薦の言葉の”素手です猛獣に近づく”ようなものだろう・・、それを後続世代が感じ、考えたイメージが「言語の演劇の新しさ」、さらにそのことに基づく「実直な演劇」だと言い放つのは、実際に夢中になってアングラ演劇を”スゲエ、スゲエ!”とわけもわからずも観ていたワタシの体験からは、迂遠の発想だったのだ。おちついて考えたら、梅山さんのいうとおりで、後書きに書いてある言葉・・・・「アングラ演劇はあらゆることに言葉をつくした言語の演劇でもあったが、その言葉が時代を超えて響き続けているのは、アングラ演劇が言葉を自己表現のために用いたのではなく、他者のために捧げたからである」、これには痺れた・・。
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by engekibukuro | 2013-02-18 08:10 | Comments(0)