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4月29日(金)M「雨が空から降れば」Pカンパニー

作:別役実、音楽:小室等、演出:林次樹、シアターグリーン

 開幕、登場人物全員で傘をさして小室等の、あの歌を歌う。〽雨がふれば・・・。
そして電信柱に、首吊りの環がぶら下がっている・・。この環に誰が首をつっこみ、ぶら下がるか・・。
その死体を奪い合う、二組の流しの葬儀屋・・・。これは、別役のブラックナンセンスコメデイ、瀕死の病人の死を、いやただの病人でも、早く死ぬことをせかして、死体が欲しい・・・。
 この芝居、そんなにこの世に未練があるのか、生きていることが、そんなにいいことなのか、という問いが、全編みなぎっていて、それは、それで迫力があるのだが、ドタバタ騒ぎにキレがなくて、重苦しっくなってっしまったのが難点だ・・。熱役劇が看板メニューのPカンパニーだけに残念だ・・・。
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by engekibukuro | 2016-04-30 09:41 | Comments(0)  

4月28日(木)山田風太郎「人間臨終図巻」(上中下)

 この本(下)から読む。七十三歳から百代で死んだ人々までを記述する。
 演劇関係では七十七歳で死んだ河竹黙阿弥
”何事にも容易周到な彼は、毎年元旦ごとに遺言状を書き改めるのを常としていたが、明治二十六年もそれを書き、二日後の三日、朝食後ふと左の手さきが動かなくなった。軽い脳溢血を起こしたのである。
以来彼は床につき、しかし別に苦痛はなく、脚本のアイデイアを話したり、替唄をつくったりしていたが、二十二日午前九時ごろ「きょうはいよいよゆくぜ。午後まではもつめ」といい、念仏を唱えだし、午後四時過ぎ、眠るように息をひきとった。真に珍しい大往生であった。”
 七十八歳で死んだ新劇の名女優田村秋子
”昭和五十八年一月、秋子は肺炎を起こし、君津の病院に入院したが、死ぬ三日前から食事を拒否した。そ弱のせいではなく、もはやみずから生きることを拒否したかのようであった。
 二月二日の夜七時ごろ、彼女を敬愛し、しばしば訪れていた豊田正子(綴方教室」の作者)が、あとを子息司に任せて帰ろうとすると、ふいに秋子は「さよなら!」と声をかけた。「暗い感じのさよならではなくて、軽い、はずんだ調子の、寧ろいたずぽっく云ったという感じ、だったという」と友人の劇作家内村直也は「早すぎた退場」でか書く。
 「最後の瞬間に至極平凡な言葉で、明るく永遠の別れを告げる。深刻なところがみじんもない。これはもしかすると、とっさに出た言葉ではなく、彼女のなかで充分に考えられ、練られた言葉だったのではないか」
 豊田正子はこの言葉で行けなくなってしまった。
 時計が二月三日の午前一時をさしたとき、田村秋子は息をひきとった。”
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by engekibukuro | 2016-04-29 09:21 | Comments(0)  

4月27日(水)

 ジョージ・オーウエル「1984年」をやっと読んだ。
 テレスクリーンで24時間、一挙手一投足を監視されている独裁国家の暗い々日常の雰囲気が、1ページ々から立ち上ってくる・・・。その国家の支配にわずかに自由を求めて愛し合っていた男女が、国家の罠に落ちて逮捕され、引き離され、拷問を受ける・・・。
 しかし、こういうヨーロッパ型の独裁国家は、20世紀のものだろう・・。21世紀は、北朝鮮のようなアジア型か、一見自由のようで、陰湿な国家支配がじわじわ生活を狭めてゆくどこかの国か・・。

 ・神保町銀漢亭へ、堀切克洋君が来ていた・・・。
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by engekibukuro | 2016-04-28 09:48 | Comments(0)  

4月26日(火)M「雲ヲ掴ム」作・演出:中津留章仁

青年劇場、紀伊国屋サザンシアター
 中津留はパンフレットに「凡庸さの中で研ぎ澄ます牙」という今回の作品について抱負を書いている。
「今回の戯曲は凡庸である。この文章からはじめたい 要するに新劇の歴史上よくある切り口の戯曲であるということだが、これを否定的に論じるつもりはない。元来私はTRASHMASTERSというカンパニーを主宰しており、そこでは革新性というのがひとつのテーマとなっている。自身のカンパニーでは凡庸であることをあまりよしとせずにやってきたが、一方で革新性は観客との共有を図る上では非常に厄介な代物であることは重々承知している」と・・。言葉が分かりにくいが、中津留の作劇態度が説明されていると思う。凡庸であるという今回の戯曲は、戦車の備品をつくる中小企業の工場の事務所を舞台にしている。中央の壁に神棚があり、下手の壁には日の丸が貼ってある。主題は、憲法九条をもつ日本が、武器を製造し、さらにその武器を輸出して、その武器が他国の民衆を殺しているという現実との矛盾だ。この工場には、戦車の備品にかかせない器具を正確に造る職人がいて、その職人の評価で、この工場はもっている。この会社の社長の長男は、小さい頃、人殺しの道具を作っている家の子だと、いじめられた。次男は家の仕事の矛盾に批判的だ。この工場はむろんヨツボシという大会社からの受注で作っている。いずれにしろ、日本のどこかの工場で作らざるをえないのが現実だ。この芝居では、名人といわれた職人が大怪我して受注がとまってしまうことが、山になっている。たしかにある意味、凡庸な主題かもしれないが、平和憲法をもつ国民は心にとどめておくべきことだ。ただ、ぶたいはともすれば紋切型の叫びあいになっていまい、それが主題の深みを削ぐようになってしまっているのが惜しまれる。楽しみは、中津留が今年の秋に新劇の牙城劇団民藝に書き下ろす新作fだ。そこでこそ凡庸と革新の問題が真に試されることだろう。
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by engekibukuro | 2016-04-27 09:43 | Comments(1)  

4月25日(月)Mミュージカル「わがまま」

作・演出:渡辺えり、作曲・音楽監督:近藤達郎
 渡辺えりと戸田恵子の二人ミュージカル。
 ”母が介護施設に入所して一年。もう実家に戻れないような状況になってしまった。先日お見舞いに行くと、母が職員の方たたちに私のことを真剣な表情で頼んでいる。「この子は子供のいない可愛そうな人間なんです。どうか、私と一緒にここに入れるようにしてください。」母は「どうかどうか!」と職員の方一人一人に手を合わせていたのだった。認知症になっても娘のことを気遣っている母の姿を見て涙が止まらなくなってしまった。
 今回の舞台は、そんな悩みを抱えながらも、舞台に精一杯情熱を傾けようとしている女優二人の姿を描いたミュージカルだ。わがままな主演女優に、気をつかいながらのいろいろなエピソードを、楽屋で二人でぐちりながtら、それでもせい一杯舞台を務めている女優を、渡辺と戸田が歌い演じて、初顔合わせの新鮮さをタイプの違う面白さを思い切り生かして演じ切っていた。
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by engekibukuro | 2016-04-26 09:45 | Comments(0)  

4月24日(日)


・全くの遅ればせにジョージ・オーウエル「1984年」を読みだす。時間がかかりそうだ。


 
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by engekibukuro | 2016-04-25 11:06 | Comments(0)  

4月23日(土)M「名も知らぬ遠き島より」座・高円寺

作:山谷典子、演出:藤井ごう Ring-Bong

 時は1946年、第二次大戦後の北満州、牡丹江 給日本軍の病院、現ソ連軍収容所。この病院と現代の病院が交差する。ソ連に接収された病院は、薬も食料も不足して、看護婦たちは、いつソ連の接待婦にさせられるか怯えている。病気の快復もおぼつかず、日本へいつ帰れるかもわからない入院中の兵隊たちは毎日不安におびえている。そういう極限状況から日本に帰ることが出来たいまはもう老人になった男が現代の病院に入院して、その娘と孫娘が看病している。その孫娘の根気が遅れているのを母親がやたらに心配している。この芝居は、日本が敗戦から復興して繁栄したが、いまの政権は戦前の日本への歪んだ郷愁から、戦争の気配が漂い始めている・・・・。現代の病室から戦時の病院へセットが移動するのだが、現代の病院のセットのかたわらに傷病兵が座っている。これは、今忘却されている、戦時の過酷な状況を忘れるな、という警告の含みをもrつ・・・。作者は丹念に戦時中の病院の状況と、現代の一見平和な状態を丹念に描く。それは首肯せざるをえないリアリテイを舞台にもたらせて、タイトルの”名も知らぬ遠き島より”のさらに”流れ来る椰子の実一つ”の、その実である、一つの生命の大事さを静かに訴えているのだ。

・おもろへ。久しぶりに有田芳生さんに会う。有田さん、やたらに調子が悪いと愚痴をこぼす・・・。
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by engekibukuro | 2016-04-24 10:13 | Comments(0)  

4月22日(金)内田洋一「あの日、突然遺族になった」

ー阪神大震災の十年ー:白水社

 熊本の地震が発生したときに、この本を内田さんにいただいた。
内田さんは、阪神大震災のとき神戸のマンションにご夫婦で住んでいて、直撃されてかろうじて生きのこった。この本は、その震災のドキュメントであり、震災後に神戸で活動したさまざまな人々、アーテイストの活動、そのほか多岐にわたる人々の震災後の活動記録、それらが合体して神戸が復興してゆくプロセスを臨場感に満ちた筆致で描く。とくに神戸に住む在日コリアンについての記述が心に残る。最後に「あとがきにかえて 廃墟のピクニック」で自分たち夫婦の神戸から大阪までの脱出行を、それこそ一緒に体感できるような素晴らしい文章で書いている。この本を読んでいる最中に、熊本の地震の報道が告げられて、日本という国がどうにもしかがない地震国であることの実感が切々と迫ってくるのだ。内田さんには東日本大震災に取材した「危機と劇場」もある。日本という国の危うさを改めて感じ、考えさせてくれた本だった。 
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by engekibukuro | 2016-04-23 09:40 | Comments(0)  

4月21日(木)M「コーラスライン」劇団四季

日本版スタッフ:日本語台本・初演日本版演出:浅利慶太
オリジナルスタッフ:原案・振付・演出:マイケル・ベネット

 どうした風の吹き回しか劇団四季からはじめて招待をいただいて、浜松町の自由劇場に行った。ほかに、春・秋の劇場があることもしらず、まったくのおのぼりさん・・。日本での初演は1979年で、36年も前だ。
私は「コーラスライン」は映画でしか観ていない。初演からのたびたびのの上演で、そのたびにオーデイシションが行われたそうで、それが、この舞台の初々しさを保証してるのだろう。休憩なしの2時間半、流れるような舞台で、ラインに乗れた、乗れなかった男女それぞれのの悲喜こもごもの感情がみごとなダンスで渦巻いていた・・。乗れた人、乗れなかった人、ドライだが、爽やかだ・・。
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by engekibukuro | 2016-04-22 09:27 | Comments(0)  

4月20日(水)M「野鴨」文学座アトリエ公演

作:ヘンリック・イプセン、訳:原千代海 演出:稲葉賀恵

 久しぶりに文学座の底力を感じさせる芝居を観た。イプセンはこの作品について、”この作品では、政治、社会、公衆の問題をまったくとりあげていません、家庭生活に関することばかりです”。と言っているが、この作品に出てくる人間は、その人間観、人間描写は少しも古びていない。人間は弱く、自己欺瞞にとらわれ、他人のことに親切ごかしで、冷酷で、現実を直視しているようで、そこにもエゴイズムの罠はある。この芝居のややこしい人間関係では、女性のほうがより人間性の現実に率直に即して生きているのだが、最後には未来を夢見た少女ヘドウイックが、未来の夢を託した野鴨をピストルで撃つといって、野鴨のいる納屋に行くのだが、撃ったのは自分の胸だった・・。彼女が自死するまでの大人たちの複雑な相克のリアリズムは、それぞれ独特の個性や生活歴の持ち主にの、そのもうどうしようおない裸の人間性の究極までイプセンは、じわじわ追いつめる。その人間を演じるベテランの坂口芳貞、小林勝也、そしてそれが人を傷つけることに無頓着に自分の正義感に酔っている人間を演じる中村影男、毎日落ち着かず夢見がちの発明に没頭している男を演じる清水明彦、その妻で、自分の娘の父親を夫に疑われても仕方がないものは鹿がないと平然とせざるを得ない妻を演じた名越志保、この中村、清水、名越が芝居の主軸を担って、イプセンの生きた19世紀の人間と、現在の生きている人間が、ほとんど寸部ちがわぬ人間性を如実に感じさせたのだ。若手の稲葉が、まさに本格的にイプセン劇を真正面から演出し、俳優陣がそれにたっぷり応えた、じつに見応えのある舞台だった。
 
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by engekibukuro | 2016-04-21 10:10 | Comments(0)