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9月30日(木)★M「青」★★「象」

★作:夏井孝裕、演出:千葉哲也、ツチプロ、OFF OFFシアター
 「青」という組織のはなしだが、よくわからない芝居だった。
★★作:別役実、演出:真鍋卓嗣、名取事務所、下北沢小劇場B1
 この芝居、もう何回観ただろう。演出家によって全く違う印象を与えられる芝居で、”群盲象をなで
る”ような感じがぬぐえない。むろん、主人公は広島の原爆被害者で、原爆の恐怖と苦しみを描いた芝居だという本線が主軸になっていることは確かではある。それにしても謎に満ちている芝居で、冒頭の「私は、いわばお月様です。・・あるいは、おさかなです。いわば淋しいおさかな」と語る「男」の詩的な台詞・・。主人公は町で背中の原爆症からのケロイドを見世物にして見ている人間の拍手を唯一の生きがいにしている男だ。原爆が一人の男をゆがめてしまった・・・、というより名もなき小市民が、そのケロイドで生きる理由を獲得した、いわば原爆が生きる理由を生んだとともとれる・・。真鍋の演出は主人公を演じた内田龍磨に、男のその執念を強烈に演じさせた。そして、同じ原爆症の吉野悠我の甥に伯父のその執念を、執拗に批判し、だまって静かに耐えることしかないと訴える。新井純の演じた妻は、それらいっさいに無関心な様子を隠そうともしない。さらに、突然、ステッキを持ったスーツ姿の紳士が出会って、一人がステッキで打倒してしまうという脈絡がないシーン・・。いわば、別役の社会的関心と別役の不条理劇が混然一体になって、強調、点の拡大と収縮がとらえがたい像を作っている芝居だと、ひとまず思うしかない芝居なのだ。だから、それがこの芝居の魅力であり、いつか全体がきちっと豊かにあらゆる細部が有機的に生きた舞台の成立を期待させる芝居なのだ。こんかいの真鍋の演出は、それに一歩近ずいた舞台だといえる。
・終わって、内田洋一さん、谷岡健彦さん、日本女子大の山口さん、日本女子大の村山知義の女性研究者と飲む。
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by engekibukuro | 2016-09-30 10:34 | Comments(0)  

9月28日(水)映画「ハドソン河の奇跡」

 クリントン・イーストウッドの新作だ。
 有名な実際に起こった事件だ。エンジンに鳥が飛び込んで、エンジンが機能しなくなって、出発空港に戻れず、機長の判断でハドソン河に不時着した・・。この機長の冷静で、果敢な判断で全員無事に地上に戻れた。この機長の判断と冷静で果敢な操縦は、「ハドソン河の奇跡」として賞賛を浴びたが、この映画はその判断が本当に正しかったかを分析し確証する委員会のシーンが中心になっている。そんな危険なことをしなくても、空港に戻れたのではないか。左側のエンジンは動いていたのではないかとか、機長は前の晩に酒を飲んでいなかったとか、麻薬をやっていなかったのかとか、家庭に不和があったのではないかとか、委員会のメンバーはこの不時着は機長の精神的な欠損、またはスタンドプレイではないかと疑っているとしか思えない意地悪としか思えない質問を繰り返す。結局、コンピュウーターの記録で、乗客全員を無事帰還させるのは、不時着しかないことが立証される・・。この機長を演じるトム・ハンクスの冷静で沈着な演技が素晴らしい。全米で賞賛されたこの事件を描いて、イーストウッドはまるで記録映画のようで、ドラマテイックな事件として取り上げる気配はまるでない。事件の大きさに比べてこれ以上なく地味な映画にしている。ドラマテイックな感動など狙らっていない。普通にやるべきことをやって生きている人間の姿、そのことこそが大事だと静かに訴えている映画だ。86歳のイーストウッド、映画でしかできないメッセージを打ち出す本格な映画人、アメリカとアメリカ映画の本当のすばらしさを静かに訴え続けている偉大な映画人だ!
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by engekibukuro | 2016-09-29 09:23 | Comments(0)  

9月27日(火)

 ・一日医科歯科大の化学療法室で点滴治療・・。
津島佑子「狩りの時代」読了。癌で亡くなった津島の遺作だ。主人公絵美子の兄はダウン症で、15歳で亡くなった。兄を愛していた絵美子は、従兄の誰かが「フテキカクシャ」という言葉を聞いた。
障害を持つ人間を、社会に不必要な「フテキカクシャ」だという意味だと後年絵美子はするのだが、
その従兄の誰かは、戦時中ヒットラーユーゲントが、住んでいた甲府の駅に止まって、式典を行ったことを覚えている。ヒットラーは、障害者も老人も社会に役に立たない「フテキカクシャ」だとして殺したのだ。この小説はこの「フテキカクシャ」ということがらをとことんこだわった小説で、それは愛する兄を思ってのことだが、それによって人間の心の深層に迫っている。それだけでなく、この小説はさらなる広がりをもって、一つの上流といえる家族の歴史を複雑に描いている小説だ。そして、津島の小説にみなぎる光輝く文章が素晴らしい。癌に侵されいながらこれだけ、そんなことを微塵も感じさせない勁い文章で、津島の文学を老年になって知ったことが返す返すも残念だった。太宰治の遺児である津島が、父親の文学と対決したとわれていることが、この小説で強く感じられた。
それとヒットラーの時代に生まれたら、社会に役に立たない「フテキカクシャ」であるオレのような老人は殺されたのかとおもうと慄然とした・・。
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by engekibukuro | 2016-09-28 09:46 | Comments(0)  

9月26日(月)俳句を作る演劇人の会

於いて、銀漢亭

 今回の兼題は”秋刀魚”と”邯鄲”
 
 私の句は、”秋刀魚燃え消火器持ち出す慌てぶり”を伊藤真紀さんが採ってくださり、”ロシア人サンマでウオッカおおハラショ”を谷岡さんが特選に採っていただいた。それと、堀切克洋君が、”秋刀魚焼く昭和は遠くなりにけり”と”秋刀魚焼くペーソスはるか懐かしき”を採ってくれた。退院後の俳句の会、皆さんに久しぶりに会えて、とても楽しい晩だった。
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by engekibukuro | 2016-09-27 06:52 | Comments(0)  

9月25日(日)



・秋競馬
 神戸新聞杯、中山オールカマー
両方とも取れず、武豊は4千勝したが、このごろは一番人気でも、ころころ負けている。


・宮部みゆき「東京下町殺人暮色」を読み出す。
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by engekibukuro | 2016-09-26 07:22 | Comments(0)  

9月25日(日)



・秋競馬
 神戸新聞杯、中山オールカマー
両方とも取れず、武豊は4千勝したが、このごろは一番人気でも、ころころ負けている。


・宮部みゆき「東京下町殺人暮色」を読み出す。
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by engekibukuro | 2016-09-26 07:22 | Comments(0)  

9月24日(土)「OKINAWA1972」

作・演出:詩森ろば、流山児★事務所、Space早稲田

 1972年の沖縄の本土復帰とコザ騒動の時代を描いた芝居。沖縄の地元のやくざの動向と、本土復帰への密使若宮敬と時の総理大臣佐藤栄作との、沖縄への核の持ち込みの密約の話、これらをないまぜにして、沖縄の歌と踊りがにぎやかに舞台の覆って、1972年の沖縄が描かれる。沖縄やくざの出入りや親分殺しの話と本土復帰の高度に政治的な問題が、うまくリンクしているとは思えない芝居だが、現在の沖縄のことを考えるには、一度は振り返るべき問題がきちんと描かれているとはいえる。現在の日本の究極の問題は、これからの沖縄の動向、沖縄の自立、基地の撤廃、辺野古の基地を作らせないことだ。だから、詩森に沖縄の1972年の芝居を依頼した流山児のアクチュアルな問題意識は舞台に反映されたし、有意義だった。
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by engekibukuro | 2016-09-25 07:58 | Comments(0)  

9月23日(金)

 パトリック・ハイスミス「扉の向こう側」(扶桑社)読了。
 小説はパトリック・ハイスミス独特のサスペンス溢れる小説だが、アメリカ人の大人になる早さに驚く。10代の若い男女が愛し合って、妊娠してしまい中絶するのだが、それが町の噂になっても、女性の両親は当然だと認め、男性の父親はキリスト教の神の教に背いていると非難する。それが特異現象だという感じはない。18歳の男女が、親と煙草を吸うし、酒を飲む、ただ大学への学資は、自分でも負担してバイトで用紙する・・。一人前になって社会に出てゆくはやさ、親離れのはやさは日本とはまるで異なる。
・医科歯科大へ。通院治療に・・。
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by engekibukuro | 2016-09-24 07:04 | Comments(0)  

9月22日(木)




 ・久しぶりにコーヒータイムへ。パトリック・ハイスミス「扉の向こう側」を読みだす。
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by engekibukuro | 2016-09-23 07:10 | Comments(0)  

9月21日(水)M「弁明」文学座アトリエ公演

作:アレクシ・ケイ・キャンベル、訳:広田淳郎、演出:上村聡史

 イギリスの高名な女性美術史家の一家の話。舞台はその女性の家。この女性アはトイレの棚にカール・マルクスの写真を置いている、先鋭な政治社会批判の闘士でもあった。美術史の専門はジオットで、赤貧の家に出自して立派な画家に大成した画家を研究対象にしてきた。息子は二人いて、長男は彼女が嫌う銀行員で、次男はものか書きを目指しているフリーター、それぞれに妻がいる。この一家がてんでにこの女性の誕生日に集まるのだが、そこであばかれるのは、この女性の子供たちの教育の仕方の、自分の研究や活動を優先して子供たちをなおざりにしたこと・・。夫・父親は別れてしまっている。子供やその連れ合いにそれを指摘される、自伝的な本でも子供たちのことは一切書かれていない。この芝居は、そのことに対する彼女の弁明が中心になる。その女性クリステイン・ミラーを演じる山本道子がその女性の存在をしっかり確保して芝居の中心的役割を立派に果たしていた。この「弁明」はソクラテスの「弁明」とか、観念的な主題を包含するし、このい一家の話題、話し方、それらのたたずまいはあたりまえだが純然たる英国風だ。だから、この芝居が、翻訳劇だということ、そのことが歴然としているのが、日本との差異、共通する普遍性をいうより、差異をしっかり定着させたこと、文学座の翻訳劇の伝統をしっかり感じさせたこと。それは自らに引き付けるより、差異そのもを感じて、普遍に近ずくルートを示した舞台だった。
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by engekibukuro | 2016-09-22 10:35 | Comments(0)