9月3日(日)

ブルー・スミス「テネシー・ウイリアムズ 最後のドラマ」(白水社)を読む。読みそびれていていた本だ。晩年のウイリアムズを描いた本だ。本の帯の惹句”再起を賭け、「ガラスの動物園」の初演地シカゴで新作発表に取り組むウイリアムズ。だがここで待っていたものは・・・。新作は発表の裏話や酒やドラッグに溺れるテネシー・ウイリアムズの最晩年を、シカゴに住むジャーナリストが克明に記録した回想風ドキュメント。”この本を読むと、いったん落ち目になると、アメリカの演劇界の有象無象がとりまき、とくに新聞の劇評家のとてつもない権威だ。劇評家の劇評の成否が公演の命で、続行か中止かが決まるぐらいの権威があるのだ。最後のシカゴ公演は失敗して、テネシーは薬瓶のふたを喉に詰まらせて窒息して死ぬ。マーロン・ブランドはウイリアムズの死にさいして「死が訪れたとき、彼はそれまでに心理的、感情的に肉体的に何回ともなく死に近づいていたので、それはたぶん彼にとってはひげをそったり、散髪するようなものだったろう。彼の死によって、われわれはみんな小さくなった。かれがいなくなってわれわれはみんな貧しくなった。彼のような繊細な人間に支持と助力を与える文化をわれわれがもっていたら、たぶん彼はもと長生きしただろう。きびしく、せっかちで、金もうけ主義の文化に根を下ろすことが難しい芸術家には真の慰めも文化的支持もない」、ブランドは「テネシーは傷つけられた一生を送った」と言って弔辞を結んだ。

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# by engekibukuro | 2017-09-04 09:57 | Comments(0)  

9月2日(土)M「坂、半ばー新宿、抜弁天界隈」Teamクースー

台本・演出・美術:古屋治男、新宿シアターブラッツ
 独特のアングラ劇団だった、金杉忠男の金杉アソシエーション出身で、名舞台監督だった古屋が書いた芝居・・。それは懐かしい感じの舞台で、新宿区でも牛込よりのとても静かな住宅街のある、余丁町から新宿の繁華街に抜け弁天の坂・・。このあたりに住む植木屋一家の物語。この植木屋の親方を演じたのは、金杉忠男の最初の劇団である中村座から観ている三田村周三で、この人も懐かしい人で、癌から立ち直って元気な姿を観て嬉しかった。それと、昔、20台の若い頃、このあたりの大きな住宅にソ連大使館広報課があって、そこで「今日のソ連邦」という雑誌の運搬のバイトをしていたことがあって、さらに懐かしさが倍加した。芝居は、その植木屋の三人の娘とそれぞれの結婚相手とのさまざまなエピソードを重ねたホームドラマで、老境に入った植木屋の親方の人生の締めくくりの芝居として、とても良くできた舞台だった。

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# by engekibukuro | 2017-09-03 10:08 | Comments(0)  

9月1日(金)

朝日新聞の毎月の文芸時評が、片山杜秀から磯崎憲一郎に代わってつまらなくなった。片山の水洗する小説は、ことごとく当たりで面白かったが、磯崎の推薦する小説はつまらない。好みの問題だから仕方がないのだろうが・・。今回磯崎の推挙した町田康の「湖畔の愛」という「新潮」9月号の200枚の小説を図書館で読んだ。もともと、町田の小説は苦手だったのだから当然なのだか、ダメだった。北海道の湖畔のホテルに大学の「演劇研究会」のメンバーが来たという話が出発点の小説だが、「演劇」といっても歌舞伎でも新劇でも、ましてアングラ・小劇場でもなく、個人個人の演芸・コントのようなものを演じる学生の集団で、町田流のハチャメチャな小説で、好きな人は好きなのだろうが、やっぱり私にはムリだった・・。
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# by engekibukuro | 2017-09-02 09:48 | Comments(0)  

8月31日(木)M「喝采」加藤健一事務所

作:クリフォード・オデッツ、訳:小田島恒志・小田島則子、演出:松本祐子、本多劇場
アメリカの演劇界の話。主役の俳優が、突然いなくなってしまって、プロデューサーや演出家は困り果て、代役として、かっての名優で今は酒浸りのフランクを選んだ。このフランクを加藤健一が演じる。今は妻のジョージー(竹下景子)の支えで生きているフランクはまずは酒を断ち、久しぶりの稽古に立ち向かうことになる。アメリカではニューヨークのブロードウエイでの本公演の前に試験的な公演を行う制度がある。その試験的な公演は、ボストンで行なわれた。フランクは久しぶりの舞台で、なかなかうまくいかず、つい隠れてアルコールに手を出してしまう。しかし、フランクの才能を認めて、復活を信じている演出家のバーニー(山路和弘)は、なんとかボストンの初日を開けた。新聞の劇評はかんばしくなく、プロデュサーのフイル(大和田伸也)は別の俳優を探し出すのだが、バーニーは断固フランクの続行をフィルに認めさせる。アメリカの演劇のジャンルにある、これはバックステージものである。休憩のあと、ブロードウエイの初日は観客の反応は拍手喝采の成功を収める。芝居の中心はフランクの復活に至るまでの、ジョージーとの軋轢、さらにフランクの復活にバーニーとジョージーは意見の食い違いから口論になって、それが嵩じておもわず二人が抱き合う展開になったり、アメリカのバックステージの微妙で複雑な世界が顕現する。加藤健一の芝居は出発点の一人芝居「審判」いらいほとんど観ているが、この芝居の受取り方はちょっと異質だった。それは、いまテネシー・ウイリアムズの晩年の悲惨さを書いているブルース・スミス「テネシー・ウイリアムズ最後のドラマ」を読んでいて、アメリカの演劇界の厳しさ、特に劇評家の絶大の権力を知ったからかもしれない。カトケン芝居が取り上げる芝居は、多種多様で明るい芝居も、暗い題材の芝居もあるが、さいごにはカトケンの個性のテイストで収まりがつき、安心感をもって見終わることができるのだが、この舞台は、そういう安心感がもてなかった。ボストンからニューヨークまでの間に、フランクが復活する経緯を描くのは難しいことはわかるが、フランクの鬱々たる印象の残像が残ってしまったのだ。これはカトケン芝居へのこちらの勝手な思い込みのせいでもあるだろうし、この芝居がアメリカの演劇界を厳しく描いた秀作だということを認めたうえでのことでもあるのだが・・・。

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# by engekibukuro | 2017-09-01 10:27 | Comments(0)  

8月30日(水)S「イマジネーション・レコード」ニブロール

振付・演出:矢内原美邦、映像:高橋啓祐、音楽:SKANK⋰スカンク、KAAT神奈川芸術劇場
ニブロールの舞台を結成20年目の公演で初めて観た。ダンスのグループとばかり思っていたが、ダンサーと役者の混合グループで台詞を叫びながら踊る舞台なのだ。
 ”私たちはなにもかも留めておきたくて簡単にシャッターを切っては、どうでもいいことを記録する。でもそこには私たちが探している本当の風景はあるのだろうか?記録した風景は何十億にも重なり、やがて曖昧なただの残像になっていくだろう。失われた時間をつなぎとめてくれるのは 私たちのイアマジネーションだけかもしれない。そこには、楽しいことも悲しいことも理性も暴力も現実も、またその逆もある。理想ではでは描き切れない明確な線がある。私たちは、いま目の前にある風景をレコードしなければならないと思う。この何でもない日々を。いまそこを流れていく時間を。そして、記録しても記録しても消えてしまうものについて考えなければと思う。手を伸ばしても届かない時間について。距離について。風景について。”以上が、今回の舞台のNibrollのコンセプトだ。そのコンセプトに関わるダンスと叫び、それらを高橋の映像がさらそのにコンセプトの奥へ奥へと彩どり深めてゆく・・。パフォーマーたちのワイルドな挙動と、高橋の映像を矢内原は客の頭と心のレコードとなるべく荒々しく、しかも繊細に演出した。初めてのニブロールの舞台、とても良かった!

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# by engekibukuro | 2017-08-31 10:18 | Comments(0)