12月11日M「海霧」三越劇場S「空の定義」俳優座劇場

「海霧」(原作:原田康子、脚本:小池倫代、演出:丹野郁弓)民芸。明治初期からの釧路の平出商店の4世代にわたる年代記。原作を上手にダイジェストした芝居で、主人公を演じる伊藤孝雄、妻の樫山文枝に華があり、男勝りの長女の中地美佐子、対照的な次女の桜井明美もキャラを立てて、北海道の風土感も漂い、厚みのある芝居であった。ただ、場面々がこってりしすぎて、最後にはもたれてしまった。
「空の定義」(作:青木豪、演出:黒岩亮)俳優座劇場プロヂュース。昨年当たりから鮮やかな舞台活動をしている松永玲子が主演。ケラがパンフにナイロの近作「シャープさんフラットさん」での松永を、松永の一人勝ちだという声さえあると書いている。この舞台でも松永は充実した演技を見せている。舞台は地方の町の絵画喫茶、そのマスターの娘が松永。本谷有希子の芝居でのようなエキセントリックな女性ではない地味な普通の女性。彼女は医師の夫をもつ自身も小児科の女医。現在妊娠三ヶ月だが、アメリカ留学のチャンスの時期と出産が重なってしまい、彼女はアメリカで出産し育児しながら勉強したいと思っている。夫はそれに反対している。また彼女の元過激派の母親は彼女が2歳のとき、夫と娘を捨てて外国での活動に参加した。その母親が父のもとに帰ってくるという事件があり、当然彼女は激怒する。そういう複雑な環境と状況を真摯に生きる女性を松永は確かな存在として演じぬいた。青木は喫茶店に出入るする常連たちをたくみに描き、津田真澄らヴェテラン俳優が演じ、不意に入ってきた初老の過激派を演じた中嶋しゅうが不気味な存在感を示した。また、青木は絵画の具象と抽象、資本主義の腐敗と過激派の不毛などの2項対立を数学の集合論などで解き、、この世界のを包摂しているのは「空」の意味の定義だとの示唆をこの芝居の背後に潜ませている。このメタフジックは松永の現実とうまくなじんでいないが、ウエルメイドの芝居の域を超えようとする意志を感じた。いずれにせよ松永の確固とした中心は揺るがない舞台だった。 
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# by engekibukuro | 2008-12-12 10:55 | Comments(0)  

恒例・雑誌チェック・新年号ー光が丘図書館

「すばる」特集圧倒的な教養と旺盛な荘作意欲を持つアラセブ(アラフォー以上に)の作家・大江健三郎「読むことに始まり、読むことに終わる」井上ひさし「三人の地下活動家、魯迅・金三・米原昶」吉増剛造「眼・耳の記憶と記録」。これは三人並べただけでアラセブンの概括記事なし。「群像」インタブー吉本隆明「文学の芸術性」わたは軍国少年だったが堀辰雄や立原道造をよく読んだ。J・トウーサンvs岡田利規対談「現実から生まれる可能性」お互いに褒めあっているだけで深みが乏しい。蓮実重彦「映画時評」-A・ソクーロフ監督「チェチェンへ アレクサンドラの旅」歌姫ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(ロストロボーヴィチの妻)が主演の傑作。20日からユーロSで公開。「新潮」四方田犬彦「文化時評」はパレスチナの映画監督ラシード・マシャラーイクとのインタブーインビューの話。蓮実重彦「随想」は蓮実の村上春樹論についての内田樹の論難に応酬している。岡田利規「安部公房と別役実の板ばさみになって」が面白い。岡田は客を被害者の主人公にシンクロさせないように牛のきぐるみを着せ、加害者にシンクロさせるために役者を舞台前面で語り掛けさせたという。また、他人の戯曲を演出する初体験で戯曲がますます解からなくなったとも書いている。古井由吉「瓦礫の陰で」古井の連作、今の日本の文学で芸術性を感じるのは古井の小説だけだ。「文学界」東浩紀「ふと考える」には房総の小さな町に「シェイクスピア・カンウントリー・パー」があってシェイクスピアの生家が再現されていて、町のボランテイアが熱心に解説するので驚いたそうだ・・。「世界」の大田昌秀と佐藤優の対談「沖縄は未来をどう生きるか」は大田の沖縄独立論に佐藤がどう切り込むのかと関心大だったのに、その話が中途半端にきれてしまったのが残念だった。
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# by engekibukuro | 2008-12-11 11:09 | Comments(0)  

芝居のない日曜日 12月7日晴れ

今日は阪神競馬場でのジャパンカップダートの日。後楽園場外で馬券を買う。そのあと千代田線で松戸へ。電車に乗ると必ずシェイクスピアのソネット(吉田健一訳)3篇とジョン・ダン詩集(湯浅信之訳)を1編読むことに決めている。そのあと多田富雄「寡黙なる巨人」を読む。多田先生は免疫学の世界的権威で、能楽評論家でもある。。この本は突然見舞われた心筋梗塞によって全身麻痺になり、その辛い闘病記。最近読んだ須原一秀「自死という生き方」は自然死の辛さを避けるために元気なうちに自殺することを説い本で実際著者は首を吊って決行したのだが、自然死か自殺か、多田先生の頑張りのほうが共感できる。松戸で新京成に乗り換え八柱駅へ、そこからバスで松戸市博物館へ。「縄文時代の東・西」展を見る。東は東北地方、西は九州で出土した土器読、石器の展示。縄文は岡本太郎「縄文文化論」、最近では中沢新一の書物からの興味だが、あまり迫力のある土器はなかったが、やはり木偶の造形は素晴らしい。ピカソ顔負けの造形力で、2万年前から人間の造形力は変わらないようだ。帰りは千代田線根津で下車。煎餅マニアなので週刊文春煎餅屋十傑の3位になった大黒屋で醤油醤煎餅を買う。そこから千駄木まで歩く。途中で往来堂という本屋に入ったら、津野海太郎「おかしな時代ーワンダーランドと黒テントは平積みされていて、純文学雑誌が目に付く棚に並び、文庫も岩波が中心で客の出入りも多くて、さすが谷根千(谷中・根津・千駄木)の町の底力、衰退している町の本屋のなかでよく頑張っていると感服した。昔池袋でユニークな酒場をやっていて、その女主が今は千駄木の生家を改造して開業している「五十蔵」(ロシア語で火花)へ行く。40年来の付き合いだ。泡盛4杯、地元の人たちとお喋り。帰宅、競馬はダメだった。次の芝居は12日の柳美里「向日葵の柩」だ。
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# by engekibukuro | 2008-12-08 16:08 | Comments(0)  

12月6日M「線路は続くどこまでも」OFF OFFシアター

小宮孝泰一人芝居(作・演出:鄭義信)。小宮のお父さんが朝鮮鉄道のピョンヤンの近くの駅の助役だった。その追憶をチョンに頼んで劇化したもの。しかし助役さんも頻繁に出てくるが、主人公はその駅の駅長だ。物語は終戦の日の翌日16日から始まる。軍部や日本の支配層は日本人民衆を置き去りにして、さっさと帰還してしまう。駅長も機会はあったが、その町の日本人のリーダーとしての職責から北朝鮮からプサンまでの苦難に満ちた帰還の旅を引率する。積年の恨みをはらす朝鮮人、侵入してきたロシヤ兵(芝居ではロスケと蔑称)におびやかされながら食べ物もなく、女はロスケにさらわれ、子供は飢えて死ぬ命からがらの旅だ。こららは今ではよく知られたことではある。しかし、小宮の一人で多人数を演じ分ける小宮独特のコメデイタッチの演技が、シリアスに演じるよりも、客の想像力の余地を大きく広げ、改めてその悲惨を実感させた。だからロシヤ軍の命令での宴会に駅長に懇願されて一晩過ごす昔芸者だった女性や、プサンを目前にして死んでしまった駅長夫人のエピソードが哀切極まりない。在日コリアンの作者が日本人の受難をきちんと、しかも軽妙に描いたのは、日本人も朝鮮人も民衆の苦難は共通しているという年来のモチーフがもたらしたものだろう。
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# by engekibukuro | 2008-12-07 11:26 | Comments(0)  

12月5日S「舞台は夢」新国立劇場

作:コルネイユ、演出:鵜山仁。コルネイユの芝居を初めて観た。こういう試みが新国立でしか出来ない仕事なのだろう。少々なじみにくい舞台だったが、勉強になった。堤真一、段田安則、秋山菜津子ら華やかなキャストだが、侍女役の高田聖子が面白かった。10月の同じフランスの翻訳劇「瀕死の王」はぎこちなかったが、今回は彼女の持ち味が全開した演技だった。
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# by engekibukuro | 2008-12-06 09:33 | Comments(0)