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8月13日(月)「MACBETH」ラフォーレミュージアム原宿

原作:W・シェイクスピア、翻訳・ドラマターク:河合祥一郎、脚本:斉藤栄作、演出:板垣恭一、美術:野村真紀、企画・製作:る・ひまわり。
 びっくりした!こんな「マクベス」が観られるとは想像もしなかった。まず、舞台が真四角なプレートで客はその舞台を四方から囲んで観る・・。会場の壁全面を暗い蔦が覆っていて、独特な雰囲気と予兆を感じさせる設えで・・。そして、私が観たことがある役者はマクベス夫人の馬淵英俚可とマダフの松村雄基だけ、演出の板垣の舞台もあまり観ていなかった。さらに肝腎のマクベスを演じた矢崎広をまったくしらなかった。他のメンバーも世間がせまくて知らない役者ばかりだが、客の大半が若い女性だったから、みな知られている人たちなんだろう・・。だから、シェイクスピアの芝居などみなほぼ初体験だろう・・、それを四角いプレートの裸舞台で、装置やその他、装飾的な支えなどなしに台詞だけで演じ抜く・・。他のいろいろな人物を省略して台本をシンプルに簡略化して、芝居の基本線だけを貫く・・、演出は役者にテキストに裸で向わせ、シェイクスピアの台詞が役者に憑依するまでに追い詰めてゆく・・。すると今まで観たシェイクスピアの舞台とは違う、自然にできてしまう型ではなくて、シェイクスピアの台詞の裸の真意だけが伝わってくると思われて、ぐんぐん舞台に引き込まれてゆくのだ・。すとドラマタ-グの河合が書いていたように、”マクベスは矢崎のような若者が演じるのがふさわしい、矢崎マクベスは、本来あるべきマクベスの姿を見せてくれそうだ”というのが納得できる成果をもたらしたのだ。それを実現させた板垣の演出力は賞賛に値する。ひさしぶりに興奮させられた舞台で、それはこのマクベスというシェイクスピアの悲劇の中でも特異な不可解な人物の謎がこの舞台で再燃されたからで、それで何十年ぶりに柄谷行人の名篇「マクベス論ー意味に憑かれた人間」(「意味という病」所収)を読み返して、また興奮した。全部書き写したいほどの名評論だが、河合と板垣が一致している”この作品のテーマは愛”だということについて、「夫人が死んだとき、マクベスは、『そうか、いつかは死ぬはずであった。こういう知らせを聞くときもあろうかと思っていた』という。この短い感想は、たしかに”愛”を感じさせないが、”友情”に似たものを感じさせる。彼らの協同行為が破綻しはじめたとき、彼らの『夫婦』は崩壊していたが、マクベスに残っていたのはいわば同志としての友情である。同志でなければ夫婦たりえない彼らの無残さは、マクベス自身が知っていたはずなのである」という文章に変奏される。
▲「彼が最後に抜け出たのは、いわば『悲劇』というわな、自己と世界との間に見せかけの距離を設定した上で和解へと導くそのからくりにほかならない」。
・-明日が、その明日が、そのまた明日が一日一日とゆっくり過ぎて、やがては時の最後のに行き着くのだ。昨日という日はすべて、馬鹿者どもが塵にまみれた死にいたる道を照らしてきた。消えろ、消えろ、はかない灯の光!人生は歩く影法師、哀れな役者だ。束の間の舞台の上で、身振りよろしく動き廻ってはみるものの、出場が終われば、跡形もない。白痴の語るお話だ、なにやらわめきたててはいるものの、なんの意味もありはしない。・・・・!

by engekibukuro | 2012-08-14 12:28 | Comments(0)  

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